きみはひとり ー 『ぼっち・ざ・ろっく!』感想

 

スタッフ

【監督】斎藤圭一郎

【原作】はまじあき

【シリーズ構成・脚本】吉田恵里香

【キャラクターデザイン・総作画監督】けろりら

【副監督】山本ゆうすけ

【ライブディレクター】川上雄介

【ライブアニメーター】伊藤優希

【プロップデザイン】永木歩実

【2Dワークス】梅木葵

色彩設計】横田明日香

美術監督】守安靖尚

【美術設定】taracod

【撮影監督】金森つばさ

【CGディレクター】宮地克明

【ライブCGディレクター】内田博明

【編集】平木大輔

【音楽】菊谷知樹

【音響監督】藤田亜紀子

【音響効果】八十正太

【制作】CloverWorks

 

キャスト

【後藤ひとり】青山吉能

【伊地知虹夏】鈴代紗弓

【山田リョウ】水野朔

【喜多郁代】長谷川育美

 

【伊地知星歌】内田真礼

PAさん】小岩井ことり

【廣井きくり】千本木彩花

 

【ファン1号】市ノ瀬加那

【ファン2号】島袋美由利

 

【清水イライザ】天城サリー

岩下志麻】河瀬茉希

【吉田銀次郎】三浦勝之

 

【後藤美智代】間島淳司

後藤直樹】末柄里恵

【後藤ふたり】和多田美咲

 

 OP 結束バンド『青春コンプレックス』

 ED 結束バンド『Distortion!』

    結束バンド『カラカラ』

    結束バンド『なにが悪い』

    結束バンド『転がる岩、君に朝が降る。』

 

 O.A.2022.10 - 12.全12話.

 

【あらすじ】

 "ぼっちちゃん”こと後藤ひとりは会話の頭に必ず「あっ」って付けてしまう極度の人見知りで陰キャな少女。

 そんな自分でも輝けそうなバンド活動に憧れギターを始めるも友達がいないため、一人で毎日6時間ギターを弾く中学生時代を過ごすことに。

 上手くなったギターの演奏動画を"ギターヒーロー”としてネットに投稿したり文化祭ライブで活躍したりする妄想なんかをしていると、気づいた時にはバンドメンバーを見つけるどころか友達が一人も出来ないまま高校生になっていた……!

 ひきこもり一歩手前の彼女だったがある日”結束バンド”でドラムをやっている伊地知虹夏に声をかけられたことで、そんな日常がほんの少しずつ変わっていくーー

                       (公式サイトINTRODUCTION)

 


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 OPを見てファーストインパクトで「あ、これは繰り返し見てしまうやつ」と気づき、「ロック好きアピールするけど気づかれないぼっち」の描写だけでもう共感性と、所謂「かわいそかわいい」といったいじらしさの感情を突かれ(それは露悪に偏る場合とそうでない場合があり、ぼざろは決して前者ではないはず)、その時点でもうムリだった気がします。見守るしかない。キャラが生き始めていたから。

 と同時に、バンド4人の演奏をワンカットに収めず、あまつさえアウトロでの孤立感の強調に「これで1クールのきららアニメを……?」という違和感が。やがてそこに本作の描きたいものが全て詰まってたことに気づきます。

 


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 ゆるふわな日常と高密度な演奏シーンということで『けいおん!』の再来を思わせる本作のもう一つの取り沙汰され方で、2022年のCloverWorlsの快進撃がよく挙がってますね。

 『明日ちゃんのセーラー服』『その着せ替え人形は恋をする』『SPY×FAMILY』『シャドーハウス(2期)』『くの一ツバキの胸の内』まだ『明日ちゃん』『着せ恋』しか見ていませんが他も全部面白いに決まってます、楽しみ。

 そして少女たちの作画のフェティッシュな拘り、手や足の細やかな表情で何をか語ろうというショットの趣向で『明日ちゃん』に感じた事もやはり『けいおん!』を筆頭とする京都アニメーション山田尚子的世界の深化でした*1

 そこに加えて、『ぼざろ』は同じ京アニでも石原立也監督的な「デフォルメが効き過ぎて実験的な域のギャグ描写」の合わせ技にもなっていて、『けいおん!』+『日常』という、京アニ的でありながら京アニはやっていないところをちょうど突いてくる新鮮さもあり、そこが単なる二番煎じを脱した強みであったとも。

 

 どうしても代表作として『けいおん!』をイメージさせられるゆるふわ系の作品の中で*2、近年は『ゆるキャン△』のヒットに顕著なように、ゆるふわ生活を描くとどうしても潜在的に描かれてしまう「ゆるやかな同調圧力」の世界*3の否定が新たな流れ、というより前提として敷かれるようになり、その抜けの良さは本作にも健在。

 実は最初に作品のコンセプトを知った時から「バンドを組んだらもうぼっちではなくなるじゃん」と、よくこの題材で連載や1クールアニメが続くなと不思議で、OPを見てその疑問はより深まったのですが、本作に於ける「ぼっちちゃんのぼっち性」はただ孤立しているという事が問題なのではなく、根本的な性格や気質の問題で周囲と上手くやれない、あまり迂闊な診断名を記す事は憚られますが決して現代人の中でも少なくない障害持ちかそれに近い所謂「グレーゾーン」なのではないかと、今では結構リアルに感じられます。

 

 『FLANK』という映画がありました。イギリスの田舎で漠然と音楽での成功を夢見る若者ジョンが、四六時中大きな被りものの覆面をしている「フランク」なる謎の天才アーティストと出会うことでバンド活動を始め、やがてテキサスまでツアーに出るがバンドは瓦解、素顔を見せず奇行ばかりのフランクは行方不明に。

 夢破れて帰国したジョンはフランクの両親に遭い、「何故彼はああなのか」と問うと、両親は困ったように「別に何も。普通の家で普通に育てた、普通の子だったよ」と伝えます*4

 才能があるからとかバンドを組んだとかそういう外付けのレッテルでは何も解決しない、本人が一生抱えていくしかない気質。

 

 ぼっちちゃんもきっと、極端な反応を繰り返して他者とスマートにコミュニケーションを取れない気質を一生抱えていくのでしょう。

 それは個性だとか魅力だとか他者が讃えてみたところで、本人にとってはずっと続く苦悩。たとえバンドを組もうとも、才能が認められようとも、その孤独から目を逸らさず、彼女の神経過敏さをギョッとするほど実験的でデフォルメしたギャグ描写で伝えてくれるところに本作の優しさを感じました。と同時になるほど、であれば「ぼっち」を題材にどんなに人間関係や展開を広げてもその根本は揺るがない。

 

 実は途中までは緻密な作画とそれを適切なリズムのショットにハメていく手つきの確かさの実写的な匂いに対してデフォルメが余計に思えたのですが(『けいおん!』の中に『日常』のギャグが出てきたらうるさい筈なので)、途中からその過剰さこそがぼっちちゃんの見ている世界なのだと得心がいき、その不器用さが他人とは思えず泣けてきました。

 原作に比べぼっちちゃん以外のメンバーのモノローグが大幅に消されているという指摘も見かけて納得。Kindleプライム無料体験で1巻は読みましたが、個人的に印象に残ったのはそもそもが4コマという枠を窮屈そうにしている「何か語りたい」原作のパワーと、それと意外とアニメに比べて身体性が艶っぽく出てるように感じることで、ここら辺はアニメ版の方が上品、かつシンプルにお洒落で可愛くて、何より楽器という主役を引き立てるバンドマンのシルエットとしてそちらの方が良いので好みです。

 

 ここまで個人のメンタルに寄り添ってくれる作品であるにも関わらず、本作を言及する声はキャラ同士の関係性を消費するものが多く、「ぼっちちゃんの様な才能も無いのに『私がぼっちちゃんだ』と思うことが口にしづらい」空気がネット上に漂っているような不健康さを感じるのですが、

 いいんじゃないですかね。

 そんな才能なんて関係ないところにある「ぼっちちゃん性」をこそ主眼に据えたアニメなのですから。

 生きづらさを感じていればきっと誰でも「ぼっちちゃん」であり、ぼっちちゃんが結束バンドに出会えたように、そうした視聴者が『ぼっち・ざ・ろっく!』と出会えてそこに自分の居場所を見つけられたら、作り手も本望じゃないでしょうか。

 

 ぼっちちゃんが

 ・周囲に合わせようとして努力して空回りする時、

 ・自分の作詞にだけは異様に自信があり「傑作です」と言い切れてしまう時

 ・そしてED2『カラカラ』のアニメーションで、どこぞのテラスでジュースかラテを啜りながらスマホを眺めている時(恐らくSNSで誰かが自分に反応してくれるのを待っている)

 その隙だらけのうら寂しい姿にもし自分自身の姿を見つけることが出来たらその時、

 きっときみはひとりぼっち。

 


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 ぼっちちゃんが最大のヒーローになる演奏シーンでその猫背も視野狭窄もより一層ひどくなる、という逆説も本作の良心で、たぶんバンドアニメをやろうとしてここに至れる作品は他にもまず無いんじゃないかと感じました。

 ところで『けいおん!』の演奏シーンは元を辿れば『ハルヒ』の文化祭ライブですが、そこで用いられる「演奏中、他の校内の様子の点描が流れる」演出の元ネタはハルヒ同回内に目配せもされた映画『リンダ リンダ リンダ』です。

 同様の演出「文化祭での演奏中の校内点描」が本作最終回でも再び登場するともはや何の何?となってそこまで「オマージュである事」を薄めていいのだろうかと若干妙な心配も浮かんだのですが、同時に「すごいバンドがやってるらしいよ」と生徒たちが噂して友達を呼び、ぴょんっと跳ねる、というシーンも織り挟まれます(そんな台詞がある訳ではないが、聞こえてくる)。

 これは渡辺信一郎監督『坂道のアポロン』の文化祭ライブシーンそのままであり*5、つまり「何の何」という事はなく「遍く文化祭表現」のすべてを連れてきて、それでもその中心にいるぼっちちゃんの視野は自分の世界に孤立したぼっちちゃん性を保ったまま、という点の強調に繋がっているのです。

 この際、喜多ちゃんはぼっちちゃんをちゃんと見ているし、山田リョウもぼっちちゃんの暴走に恐らくは期待して虹夏に目配せしているし、もちろん客席からきくりや店長、ファン1号2号、後藤家一家もぼっちちゃんを親身になって見守っているのですが、ぼっちちゃんだけは自分の手元しか見えていません。

 ようやく素の自分で舞台からの景色を見渡した時に、相変わらずの極端な行動ですべてを台無しにしてしまいクライマックス中断。

 成長しようのない根本的な気質はそのまま、という一貫性。その上で、彼女の人生はじゃあ何も変わらないのかと言えば、第一話との反復であるエピローグがそうではない事を伝えています。

 転がる石は石のまま、けれど転がれば昨日とは違うところにいる。

 

 現実社会と日本のアニメの乖離は時おりとても心許ないのですが、最終回でカバーされたその曲の歌詞の入りにやけに安堵する自分がいました。

 

 数年ぶりに、アニメ一話に出会い、繰り返し見てそこに落ち着く居場所を見出して……という、アニメファンらしい振る舞いを取り戻すことが出来て、それから先、心なしか遠ざかり気味だったアニメ見る時間が増えた気がします。

 アルバム『結束バンド』も名盤で、楽曲がアニメを外側で補強しうる事をしっかり計算に入れて制作されている事も伝わってきます。

 特に『カラカラ』のラストがエモエモなので、アニメ見て好きだった方は是非聞いて欲しい。

 たぶん本作が肯定しているのは、こういう儚さ。

 

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 スカート揺れる教室の隅で 

 ずっと溢れる夢を抱きしめてた

 『きっとやれるわ』

 やれるわ… やれるわ… やれるわ…

 

*1:ところで『ぼざろ』のアジカン引用に先んじて、『明日ちゃん』では重要なシーンでスピッツ『チェリー』が登場します

*2:必ずと言っていいほど「卒業」=「リミット」を設定する京アニのゆるふわ路線は実は他の「ゆるふわアニメ」と別ジャンルだと思っていますが

*3:女子特有と言われがちですがホモソーシャルにも当然存在する

*4:フランクは最後まで顔を見せませんが、演じるのはマイケル・ファズベンダーなのも味です。例え中身が特別であろうとも、世間には浮いたかぶり物にしか見えない

*5:ファン1号2号の声優・市ノ瀬加那島袋美由利が渡辺監督『キャロル&チューズデイ』のキャロルとチューズデイなのは、わざとですよね?。『水星の魔女』でも共演してた二人

brilliant cut.  like a ー 『宝石の国』感想

 

スタッフ

【監督】京極尚彦

【原作】市川春子

【シリーズ構成】大野敏哉

【脚本】大野敏哉・ふでやすかずゆき・井上美緒

【キャラクターデザイン】西田亜沙子

【CGチーフディレクター】井野元英二

【コンセプトアート】西川洋一

美術監督・美術設計】赤木寿子

美術監督(第六・十話)】金子雄司 【美術監督(第十一話)】安藤愛莉

色彩設計】三笠修

【撮影監督】藤田賢治

【編集】今井大介

【音響監督】長崎行男

【音楽】藤澤慶昌

【音楽プロデューサー】三上政高

【プロデュース】武井克弘

【制作プロデューサー】和氣澄賢

【制作】オレンジ

 

キャスト

【フォスフォフィライト】黒沢ともよ

 

【シンシャ】小松未可子

【ダイヤモンド】茅野愛衣 【ボルツ】佐倉綾音

 

【ルチル】内山夕実

【ジェード】高垣彩陽 【ユークレース】能登麻美子

【イエローダイヤモンド】皆川純子 【ジルコン】茜屋日海夏

【モルガナイト】田村睦心 【ゴーシェナイト】早見沙織

【レッドベリル】内田真礼 【アメシスト84・アメシスト33】伊藤かな恵

【オプシディアン】広橋涼 【ベニトアイト】小澤亜季 【ネプチュナイト】種崎敦美

【アレキサンドライト】釘宮理恵

 

【スフェン】生天目仁美 【ベリドット】桑島法子 【ウォーターメロン・トルマリン原田彩楓 【ヘモミルファイト】上田麗奈 【ヘリオドール】M・A・O

 

【ウェントリコスス】斎藤千和 【アクレアツス】三瓶由布子

 

【アンタークチサイト】伊瀬茉莉也

【パパラチア】朴璐美

 

【金剛先生】中田譲治

 

OP YURiKA『鏡面の波』

ED 大原ゆい子煌めく浜辺

  フォスフォフィライト(黒沢ともよ)『liquescimus』

  YURiKA『鏡面の波〔Orchestra Ver.〕』

 

O.A 2017.10~12.全12話.

 

 人のように動いて喋る宝石たちと、宝石たちの体を狙いたびたび空から飛来する月人たちとの闘い*1を描く市川春子のSF漫画を原作としたTVアニメーション

 

 一巻発売時のアニメーションPVは通常の2Dアニメで、制作はスタジオ雲雀、監督は後に映画『海辺のエトランゼ』を監督する大橋明代。

 この時点で市川春子のクールな筆致でデザイン性に特化した、ややもすると立体的な展開がイメージし辛い原作絵をアニメーションとして再構築する方向性は完成していると思われる。キャラクターの躍動性や、明確なカラーリングの、特にキラキラした光沢が鮮やか。


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 一方、本作をTVアニメにしたのは今までアニメのCGを担当してきたオレンジで、本作が元請けデビュー。監督は3DCGによるMVパートを数々含む『ラブライブ!』シリーズや、『KING OF PRISM』シリーズのプリズムショー演出を手がけてきた京極尚彦

 元々市川春子短編集のタッチに惚れ込みCM版も好きだった事もあって「えー? CGアニメ?」と思ったような気がしないでもないけれど、CM版の方向性を引き継ぐ形、かつプレスコ方式を採用した「生」の芝居を取り入れ、結果、他に類を見ない塩梅の美しいアニメーションが誕生した。

 

 オレンジのアニメーションは2Dアニメでも成立する、逆にCGで表現すると99%キャラが「不気味なポリゴン」を思わせて失敗に終わる*2、謂わば「普通のアニメ」の『モンスターストライク THE MOVIE ソラノカナタ』でも空間やキャラの立体感が不自然ではなく、そこにそういう「塊」が生きていると感じさせる独自の強みを開拓していた。カラーリングの鮮やかさも特筆に値する*3

 『宝石の国』のアニメ化にあたっては正にその強みが最適解で、人ではない宝石たちがそういう「塊」としてそこに躍動し、輝き、砕けて割れることそのものが眼前で起こっていると感じられる。

 加えて『響け!ユーフォニアム』に続く黒沢ともよの生っぽい芝居がプレスコ主導に符号し、「実在性ある動く宝石」という意味不明な存在に親しい人間味を与えてその世界に視聴者の感情をリードして、やがてその人間味に揺らぎの予兆を感じさせ、キャラクターが肉体にも記憶にも思考にも幾重の変質を始めたところで一期は一先ずの区切りを迎える。

 


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 OP冒頭、一枚絵というよりまるでフラスコの中に閉じ込められた実験体(個)を眺めるように「こっち見てる」フォスの存在が本作の全てで、市川春子が得意とするものが「レイアウト上にキャラが列ぶ美しさ」だとすればCGアニメ版は「個々の存在が飛びだしてそれぞれに暴れている」という真逆の方向性を獲得しており、そのことが結果、キャラの実在性と同時に物語がインクルーシブする「存在が損なわれる脆さ、どこまでも個であるうら寂しさ」も、モノ言わず視覚的に目に沁み込んでくる。

 

 あまりに弱い為にするべき仕事を見つけられずにいたが無邪気でワガママな甘えっ子でもあるフォスが、次第に強くなりたいと願い少年マンガの主人公のように成長するーーが、人間のようにわかりやすく筋力がつくわけではなく、宝石たちそれぞれの硬度は変わらない。「筋力がつかない」たぶんそれこそが『宝石の国』のミソで、マッチョイズムによる強さという幻想がハナから削ぎ落とされて個体の変遷そのものを見ており、そこにはあるのはひたすら忘却と変質の繰り返しである。

「新しい強い手だ。無理をする勇気だってあるよ。なのにどうして遠のくの!」

 自身を削り取って、壊れた部分を捨て去って、新しく手に入れた部品で自身を拡張して、あの頃の自分を失い続けながら尚、手を伸ばしたいものには届かない。

 確かに強くなった気がしたのに。

「勇気。また勇気か。          どれだけいるんだ」

 

 「存在」の在り様を残酷なまでに見つめた原作と、その残酷なポイントをこの上なく澄み渡ったアニメ世界で端的に浮き彫りにした傑作アニメ。

 


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 原作に於いてはキャラの台詞は男性寄り、女性寄りと若干バラけており、一人称はほぼ「僕」で、ギウナジウム物少女マンガの系譜がありながら、アニメで宝石たちを演じる声優は皆な女性である。

 その錯雑としたジェンダー感がいやむしろジェンダーを削ぎ落とし、根源的な普遍性を獲得して万人に等しく拓けた透明な世界となっている事も、逃れないようのない剥き出しの孤独をそこに映し出すことに効果を表す。逃げ場はない。

 五年ぶりに見返しても改めてその美しさにひたすらあてられていた。

 

 二期を。。。二期を、早く見せてください。

 


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 こうして見るとタルコフスキーかと思った。

 

 『特別展「宝石 地球がうみだすキセキ」』2022.03.15.

 

 

 

*1:作者の出自から仏教モチーフがしばしば指摘されるが、押井守天使のたまご』の意匠も少し感じる

*2:ポリゴン・ピクチュアズが越えられない壁

*3:ポリゴン・ピクチュアズが越えられない壁

スクリーンの澱に沈み、ステージの闇に蘇る ー 『舞台 私立探偵濱マイク -我が人生最悪の時-』感想

 

スタッフ

【脚本・演出】西田大輔

【原作】林海象(『私立探偵 濱マイク』シリーズ)

【舞台監督】清水スミカ

【美術】角田知穂

【照明】大波多秀起

【音響】前田規寛

【映像】川崎貴司

【衣装】瓢子ちあき

【ヘアメイク】井上まな

【大道具】Carps 美術工房いろあと

【小道具】平野雅史

【装飾】高津装飾美術

【振付】赤沼秀実

【歌唱指導】Yuko

【中国語指導】朱永菁

 

キャスト

濱マイク佐藤流司

【楊海平】寺西拓人

【星野】矢部昌暉/宮本弘祐

【楊徳健】椎名鯛造

【濱茜】小泉萌香

【王百蘭】七木奏音

【中山刑事】和興

【エースの錠】佐久間祐人

【アンサンブル】書川勇輝、本間健大、岡本麻海、市川絵美、田上健太、中土井俊允

 


 父の影響で子供の頃『私立探偵濱マイク』三部作、即ち『我が人生最悪の時』『遙かな時代の階段を』『罠』にハマり、当然連ドラ版も視聴、その後なんだかんだで自分の人生の節目節目にその存在が顔を出してきた濱マイクが、ここに来て我が人生最愛の推しとリンクするなんて。

 事前に上演されていた朗読劇版を寡聞にして知らなかったので、秋の第一報はどこか笑ってしまうような衝撃を受けました。柏の謂わば「名画座」であるキネマ旬報シアターで『ボイリング・ポイント/沸騰』を観た際にTwitterで知ったので、濱マイクの報せには似合いのタイミング。

 

 ーー混乱してますね。

 同時にどこかこの一年半で馴染んだつもりでいた2.5次元舞台(と、いう概念に本作が該当するかわかりませんが)への「舐め」が自分にある事も認めざるを得ず、しかしこのキービジュアルだとどうしても「これが濱マイク~?」「濱マイク、アニメじゃないんだけど」という戸惑いは否めず。

 

 直近に小泉さんの舞台キャリアの一つの到達点とも呼べる『舞台やがて君になるEncore』を見届けた後なので、正直そこまで期待値を上げずに鑑賞臨んだのですが、、、

 

 

 ーー結果、現場に通い始めてちょうど一年、こと観劇に於いては過去イチというくらい充実した舞台体験となりました。

 序盤、キャラクター紹介や狂言回し的な存在として小泉さん演じる濱茜がカメラを構えたりちょっと踊ったりしてステージ全体に目配せや移動を繰り返すのですが、おそらくこの時点で舞台のマジックに呑まれている。空間が奥行きを伴う。サンシャイン劇場と言えば『はめステ』でもお世話になったのに、まるでワンランク上のより「広い」劇場で観ているかのような感覚が今もハッキリ残っています。

 開演、横浜日劇のネオンを照らすレーザーに始まり、アクションシーンでの特殊効果との融合、「指」探しにステージに降りてくるキャスト陣、異国情緒に手を抜かない映像や中国語字幕、第四の壁を破る茜と星野くん等々、舞台上で使えるあらゆる手が的確に使われて、その中で濱マイクはどちらかというと大人しく、素直に物語に翻弄されていく。マイクは不良から抜けきれないが正義感に熱い大人子供で、言ってしまえば社会のハンパ者。その野良犬っぽさがかえって引き立つ。

 演出のレイヤーすべてをたばねて、あるいはぶっち切って幾度となく舞台から客前まで飛び込んでくる感覚を与えるのはマイク以上に、映画版では南果歩が演じていたキャラに大幅に見せ場を付け足して膨らませた、七木奏音演じる「王百蘭(ワン・バイラン)」によるキャバレーの歌謡ショーの数々。

 吃驚するほどオリジナル版を忠実になぞるストーリーと、その語り口の多彩さが、いつしかオリジナル版にない彼女のショーの数々によってオリジナルの再現のその先にある一段上のエンタメステージに昇華されている。

 つまり「原作ファンとしての興奮」と「新作2.5次元舞台の興奮」が矛盾せず両立していたのです。

 

 

 本公演が劇場を広く感じさせてくれた要因として、「闇」がキチンと取り込まれた画作りが意識されていたのは大きい筈。ざっとオリジナル三部作の流れを勝手な自分解釈で振り返ってみますーー文体変わりますーー……。

 

第一作目『我が人生最悪の時

 1993年撮影とのことで、どこまで当時の横浜黄金町の空気に忠実であったのかは知る由もないが、しかし明らかにフィクションめいた濱マイクの存在が「映画館:横浜日劇の二階に陣取っている」「その後公開される続編二作のタイトルが既にポスターとして貼られている」といったメタ構造からも、やはりこれは半分ファンタジーではあるのだろう。

 同時に、ありあまる映画史への憧憬が滲む。

 ハードボイルド、モノクロのノワール、日活の無国籍アクション。

 今観ても(林監督の作品は全部そうと言えばそうだが)『濱マイク』は日本映画の流れの中でどの時代に置いても浮いている独自の重力で存在している。当時の興行で世間的にはどのように認知されていたのか今ひとつ想像つかないのだが、ただいつの時代に置いてみても、そこで海外労働者たちが社会の末端、底辺へと疎外されている状況は普遍的なものだろう。楊海平はキャストの名前をそのまま用い、最後の手紙も彼が実際に書いていたものだという話を舞台版パンフで林監督が開陳している。

 濱マイクは言ってしまえば現実から少し浮遊した、それこそ2.5次元を生きる「映画の記憶」なのだ。だから青々しく義憤を叫び、無謀に突っ込んでいける。

 「エースのジョー」こと宍戸錠がそのままの名前で濱マイクの師匠として存在している身も蓋も無さが象徴的。

 

第二作目『遙かな時代の階段を

 二作目に於いても現実から浮遊して過去を愛でるような姿勢は継続し、遙かな時代の階段を上るのではなく、階段の上から振り返って確かめている。ただしそこには単なる「映画史」を越えて、横浜黄金町への、麻薬と売春で戦後を生き抜いてきたハマの持つ裏歴史への思慕もまた含まれている。

 「白い男」は「そう生きるしかなかった」暗部の象徴であり、乗り越えるべき父である彼を倒す為に踏みだそうとする濱マイクの背中を押すのは、唐突に登場する「ヨコハマメリー(実在した娼婦)」であり、もう行けと別れを告げている。

 一作目では映画史に憧れモノクロとなって同化してみせた『濱マイク』だが、二作目ではカラーとなり、そして過ぎ去った映画史に手を振る。

 これまた勘、及び映画評論家:蓮実重彦の「かまし」ありきなのだけど、『許されざる者』以降、映画人の間にはどこか「映画史は終わり、その後を生きている」という感覚があったんじゃないかと思える節がある。『許されざる者』がアメリカで公開された翌年に『濱マイク』は始まっている。

 映画史への郷愁を終え、その愛すべき父を殺し「新時代の映画」の幕を開けようとする意思が爽やかな余韻さえ残す。

 

第三作目『罠  THE TRAP

 ところが、その新時代である筈の90年代の映画は世紀末的な退廃とサイコ・サスペンス、ついでにトレンディドラマ(山口智子)で満ちていた。前作までに印象的だった佐野史郎杉本哲太が別の役で登場してかなり混乱する事含めて、前二作とは明らかにタッチが異なっている。

 その極めつけが、永瀬正敏一人二役。片や濱マイク。そして片や……?

 古き歴史への郷愁に手を振った後、いざ「新時代の映画」に同化してみようとするが、そこにあるのは不健康なエログロ趣味で溢れた現代。ついぞ新時代に同化できなかった、同化したくもなかった濱マイクは、真っ暗なトンネルの澱の中へと沈むように消えていく。白い純白の古くさい理想に、恥ずかしげもなく支えられながら。

 残るおまけシーンは「全てメタ」でしかない。無邪気な映画史の亡霊「濱マイク」は、とうとう現代映画の中に居場所を見つけられず、消えるのだ。

 

 ここから先、「映画」に居場所を失った濱マイクは、連ドラや漫画に活躍の場を移す。漫画版は未読だが、連ドラ版はオリジナルで助監督だった行定勲らをはじめ数々の映画監督、CM、MV監督が自身の個性をぶつけている。ただベースは松田優作探偵物語』あたりのテレビ映画的な質感だろうと思われ、もはやオリジナルにあった古き映画史への憧憬は薄れているように感じる*1

 何より『濱マイク』を経て永瀬正敏その人がインディーズ映画シーンのアイコンとして完成された後の時代の作品である為、どちらかというと『私立探偵・永瀬正敏』の趣きが強い。

 正直、自分は連ドラ版の濱マイクにあまり濱み()を感じていない。マイクはずっと『罠』のトンネルの闇の中に消えたままだ。

 中でも欠片も林海象とは映画趣味を同じくはしていなさそうな(偏見)青山真治版『カリスマ』といった第六話『名前のない森』は劇場用完全版もあり*2、そこではもはや「何の何?」といった感じでずいぶん遠いところに来てしまった濱マイクがぼう然としている(だから彼は森の中で「それ」を見てしまうのではないだろうか)。

 

 今年は青山真治の早逝が大変ショックで、何か運命も感じたので、池袋に降りてまずは劇場とは反対方向、青山の母校立教大学を散策して心の中で挨拶を済ませた後に濱ステを観劇しました。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖パーカーの不審者が大学うろついてゴメンね!

 

 ーーそんな風にして。

 居場所を探し続けていた、むしろ最初から居場所などない野良犬だった濱マイクが、ドラマの番宣の為に『名探偵コナン』にカメオ出演するくらい迷走していた濱マイクが、こうして堂々と虚構のノワールを引き連れて舞台上に展開している事に、言いしれぬ感慨を覚えていました。

 『罠』に於いてマイクは、そして永瀬正敏は二度もトンネルの闇の中に消えた訳ですが、その闇の淵から今、ようやく彼自身がこうしてステージに上ってきたのだということに、絶えず説得力が与えられる強度を保った舞台でした。

 舞台はどうしても観客もその虚構のリアリティラインに対してチューニングを合わせなくてはいけない、共犯関係を要求してくる媒体だと思うんですけど、アクションの迫力によるのか銃声の音響によるのか音楽の力によるのか、かなり早い段階でごく自然とこの闇の世界に無理なく耽溺させてくれる。メタ的な笑いも取るにもかかわらず、命の奪り合いが嘘ではなくなる渋みがちゃんと。

 オリジナルよりディティールのボリュームを増やしていった為に情報量が飽和して少し混乱してくるあたりも、まさにフィルム・ノワールの感触であり、南果歩はそうはなれなかったのに、王百蘭はハッキリとファム・ファタールとして舞台を支配していました。

 

 佐藤流司さん。「野良犬」に相応しいギラつきがキチンと備わっている。初演、視座的にめっちゃ中央ド真ん中だったので、主に濱兄妹と何度も目が合った気がします信じてください。濱マイクと、よりによって推しが演じるその妹と、ラストは二人と目が合ったまま幕が閉じるような錯覚を。

 小泉萌香が出演している、濱マイクの世界の完璧な再現、いや再生。それがどういう夢であれ俺の夢であることは間違いないだろう嘘みたいな出来事なのに実際は夢じゃないという現実に目が眩みます*3

 開幕前はドラマ版のエゴ・ラッピンかからないかなーと思っていたのですが、まさか「そっち」を*4、あんな堂々と歌ってくれるとは。もちろん永瀬正敏の培ってきたプロップスに敵うとまでは言いませんが、あそこで佐藤さんの新生濱マイクに心許していました。

 

 寺西拓人さん。ドラマ的な核であるハイピン役。バラエティ豊か、時に周囲が笑いに走る中でも、冒頭から一貫してハードボイルドを背負って軸となり続ける重力。今知ったのですがジャニーズなんですね! 『リクよろ』のお二人といい、舞台メインのジャニーズ俳優、だいぶ磨かれているのでは。

 

 矢部昌暉さん。星野くんですよ。オリジナルで演じるはナンチャンこと南原清隆。その役をイケメン俳優がっていくらなんでも無茶なんですけど、初演から全力で笑いに勤しむ力業でちゃんと新しい星野くん像を勝ち取っていて、「再現」ばかりが正解じゃないんだという、当たり前なのに巷で認知しきれてないルールを再確認できました。

 

 椎名鯛造さん。『はめステ』での安心感を覚えているので鯛造さんを再びお目にかかれる事も楽しみにしていました。前半なかなか出てこないのでハラハラしていると、後半見る間にノワール世界の奥行きを情緒で連れていってくれる。

 『はめステ』に続き「第四の男」としてシリアスを底支えする役。こういうポジションを演出家がつい任せたくなる人だという事、すごく納得です。他の舞台でもこの方を見てみたい。後もえぴにおやつばかりでなく野菜も摂るよう言ってください。

 

 小泉萌香さん。ちょっと待ってくれついこの間あなたの三時間ある舞台全14公演の千穐楽を見届けたばかりなのだが? いつこれだけの段取りを? となる、特に前半での手数の多さ。立ち位置移動の激しさ。『もえの~と』河内美里さんゲスト回で「稽古一週間もなかった」と言っていた気がするのですが気のせいだと思いたいです。

 オリジナル版に比べてやはり勝っているのが茜の強気な態度で、元から芯のあるキャラではありましたが(主に二作目)それでも少し古臭い造形ではある為、小泉さんの色でどんどん塗り替えていってくれるのがやはり星野くん同様の頼もしさを覚えました。何より男性陣と並んでも特に華奢ではないところが良かった。

 

 七木奏音さん。繰り返しますが舞台を支配していました。磨き上げられた体躯、ムキムキの腕の筋肉、而してしなやかな動き、そして圧倒的歌唱力に、チャイナドレスでの美ぼう。百蘭の女性像もまたともすると古色蒼然としているのですが、七木さんのパフォーマンスのバイタリティによってより未来を感じさせる力強さを獲得し、ただの郷愁に留まらないエネルギーを舞台の隅々にまで行き届かせてくれていました。

 役柄的にもしかしたら二作目の鰐淵晴子と一作目の南果歩を混ぜてみたのかも知れません。

 

 和興さん。茜に蹴られた後のリアクションで大爆笑。あそこで「あ、こういうのアリな舞台なんだ」と理解を。強面も道化も悠々と演じられているからこそ若手が暴れ回っても世界が平面化しませんでした。オリジナル版より愛嬌が加わって、怖くて悪いけど、「大人」がそこにいる安心感。

 

 佐久間祐人さん。いや、っていうかエースのジョーまで出てくるの? という衝撃。やっぱりこの舞台、二作目やるのでは?

 あくまで宍戸錠宍戸錠として出てくるから面白くまた意味あるキャラをもはや宍戸錠ではない人が演じるの本人も意味わからなかったと思うのですが、シリアスなシーンから間髪入れずに究極の楽屋オチのような登場で大爆笑をかっさらい、唐突すぎるキャラを観客に認めさせてしまったの、演出西田さんも佐久間さん(演出助手も兼任)も舞台の手練手管がハンパない。

 

 神野役の人。単なる悪役ではない、その人生の片鱗を一瞬だけ窺わせる「間」が見事だったのですが、同時に単なる悪役としてむしろ完璧なある「身体的事実」が判明する際の不気味さが最高で、ちゃんとこの世界の奥底にある抜け出せない「闇」を感じさせてくれました。

 

 なんていうか、大人たち一人一人の存在感がまたキチンと機能している作品。アンサンブルの人も皆印象的だし、ともかくパーツのすべてがクッキリとした輪郭を持っていて確信犯でそこに収まっているような、2.5次元舞台の本気を初めて知ったような気さえしました。

 

 そもそも、マイク・ハマーフィルム・ノワールも日活活劇もエースのジョーも横浜日劇も黄金町も何も知らない頃に見て大好きだった、というよりは、好きか嫌いかさえよくわからずにやけに『濱マイク』に惹かれていた子供の頃の自分を思えば、細部の意味は判らなくても十分に楽しく、浸れる舞台なのは間違いなく。

 

 本当はもっと早く記事書いて少しでも宣伝になればと思ったのに大阪公演当日になってしまった不明を恥じつつ、引き続き応援しています。

 

 過去の郷愁と戯れ(一作目)、そして手を振る(二作目)オリジナル版の流れからすると、二作目もあって初めて成立する舞台かも知れないと思いました。

 そして願わくば三作目で、もはや『罠』すら原作ではない、「今の舞台が用意できるオリジナルの濱マイク」をお見舞いできれば、それこそ真に『濱マイク』を、トンネルの闇の澱から掬い上げてやることが出来るのではないかと、そんな勝手な希望も込めて。

 

 

*1:『スペース・ダンディ』の先駆けのような自由度

*2:野に放たれる狂人役として樋口真嗣監督が出演している

*3:濱ステ観劇して帰宅したその夜より、おそらくピークを越えた緊張性頭痛からくる体調不良が続いており、本当に目が眩んでいる。なんだろ、舞台効果の数々が刺激強すぎたのかな

*4:永瀬作詞、THE MODS森山達也作曲、『我が人生最悪の時』主題歌『キネマの屋根裏』