砕けた鏡像束ねて北へ ー 『ドライブ・マイ・カー』感想

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スタッフ

【監督】濱口竜介

【脚本】濱口竜介/大江崇允

【原作】村上春樹『ドライブ・マイ・カー』(『女のいない男たち』所収)

【撮影】四宮秀俊

【音楽】石橋英子

 

キャスト

【家福悠介】西島秀俊【渡利みさき】三浦透子【家福音】霧島れいか【高槻耕史】岡田将生【イ・ユナ】パク・ユリム【コン・ユンス】ジン・デヨン【ジャニス・チャン】ソニア・ユアン

 

複雑なレイヤーが詰め込まれ、バラバラなまま互いを照射して行き交う、うまく当てはまらないパズルのピースが歪に折り重なっているような映画。その全体像の不鮮明さはなるほど「短編集の映画化」として感触は間違ってないのかも知れない。どこにスポットを当てても全体には行き渡らないアンバランスさがあって、『寝ても覚めても』のような見通しの良さは無い。

村上春樹の短編(『ドライブ・マイ・カー』『シェエラザード』『木野』の三編)を再構築して編み直していくという作業がそもそも原作モノでありながら原作へのアンチのような構造を持っていて、セックス以外のコミュニケーション知らないのかという割と直裁的なアンチ春樹台詞が気持ち良かったり。でも大幅に逸脱する訳ではなく、原作で語られるのと同じ挿話を違う言葉で語ったり、大胆にオチを付け足したり、そうして少しずつ浸食している内に最後には春樹世界がチェーホフ『ワーニャ伯父さん』と混ざり合うという変形を見せる。しかもここで春樹だけでなくチェーホフにまで刀を抜き返しているのだ(=ラストのソーニャ的な言葉を男が発する)。「女」と「男」の分断を、それに擬態しながらも内側から無効化しようという意図(と、その限界)を感じる。だからタイトルも短編集のテーマでもある表題『女のいない男たち』ではなく女がハンドルを握る『ドライブ・マイ・カー』が選ばれたのでしょう。

アバンタイトルではまだ春樹的世界にどっぷり浸っている為、そこから抜け出しタイトルに到るまでの時間の長さは必然(でも記憶違いでなかれば原作でもかなり気持ち悪い「タンポン」を「夫のアイデア」にしているあたり抵抗の萌芽は既に)。

そうした複雑な再構築の作業があちらこちらで緻密な糸を張り巡らし、言い換えれば頭でっかちになっているので、終盤の独白二連チャンは正直映画的な緊迫感はギリギリ、というかほぼ失っていると感じた。

その後「ここ!」という場面で切り上げられず蛇足のラストを付け足してしまう相変わらずっぷり(そんなに見てないけど)も、小さな世界で持て囃されてきた類いの監督の大衆性の欠落を感じる。『偶然と想像』のような切れを持ってはいるのに。

一方で安心して楽しめるのは多言語で展開する演劇リハーサルの場面の数々。ワークショップなら勝手知ったる世界だからなのか、ただ本読みしてるだけの限りなく地味な場面を確信犯的に切り取る映像がどれも面白く、やがて屋外、ステージとどんどん豊かな時間を生み出していく。

それに比べるとドライブシーンは、本来車中から流れる景色を見せるだけで、あるいは不安定な車の走行を追うだけで、それなりに映像的な興味を持続しうるズルい要素であるにも関わらず、それほど活かせていたとは思えない。車中から外を見るにせよ、流れ去る後方のトンネルを見せるにせよ、うねる道路を走る車の俯瞰にせよ、停車中の赤いサーブと青みがかった服を着た三浦透子の色彩的バランスの魅力に比べてさして豊かな瞬間は訪れなかった。イラン映画のようにとは言わないまでも塩田明彦『さよならくちびる』のドライブ主観の気持ちよさがまだ体感として残っているからか。

本作の圧倒的白眉は原作既読でも驚く岡田将生の存在と顛末に尽き、その点で岡田との車中での切り返しの圧巻の面白さ(この時点で原作はブッチ切ってるので、以降もう原作への深掘りや回答に気を割かなくていいのに)に於いては確かに新たなドライブ映画の魅力を生み出してくれるのだが。

これらバラバラの要素を全て束ねいて牽引する為に、切り返しても衝突せず西島と同じ方向を向いている三浦の横顔/運転に託したかったのだろうけど、その理屈に匹敵するだけのドライブ映画の快感が及んでなかった印象。

割とハッキリ春樹に牙を剥いてるところ、割と予備知識は要るものの兎に角挑戦的なパーツが沢山織り込まれそれを微妙に繋げ合っているので予断は許さないスリル、言うて数え切れない程度には訪れる映画的魅惑の瞬間の数々、知的な好奇心なら存分に満たされたのではないかと思いました。

色々言ったけれども総合して面白かったです。