赤の扉 ー 『グッバイ、ドン・グリーズ!』感想

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スタッフ

 

【監督/脚本】いしづかあつこ

【キャラクターデザイン】吉松孝博

【音楽】藤澤慶昌

【撮影】川下裕樹

【編集】木村佳史子

【制作】マッドハウス

 

キャスト

 

【ロウマ】花江夏樹【トト】梶裕貴【ドロップ】村瀬歩【チボリ】花澤香菜

 

 岡田麿里花田十輝と仕事をしてきたいしづか監督がオリジナル脚本に挑戦した映画で、確かに掛け合いの勢いなど影響の影も濃く見られるのだが、岡田・花田両名を代表とする和製アニメの「言葉」が感情を、感動を積み重ねる為に機能するのに比べて、本作での止めどない言葉の応酬はただ少年達が少年らしく振る舞う為の「シチュエーション」であり、エモーションの高まりは挿入歌で流される。俯瞰的なのだ。最初からドローンが何を捉えたか。少年の目線は主観で何を捉えたか(ピンチシーンでの引きの画との事態のギャップ)。そうした構造に物語を託し、しかもその構造はリアリティラインさえ無視した象徴性を高め(熊がどうこう以前に、「そこに戻ってきていた」というほとんど化かされたレベルの事が起こった上で展開をスイッチングする大胆さ)、最後には地球という規模感、死生観さえ「超克可能な未来の予感」として映画の向こう側に放たれる。その大いなる嘘をつくために「少年3人」と「ドローン(=空撮的鳥瞰シーン全般)」しか視座を持たない。少年は現時点であり、ドローンは未だ持たざる、外部から自身達の姿を相対化された果てにもう一方を映す「外側」の可能性だ。

 本作に大人の影はほとんどなく、というか「成長の次の段階としての大人」は存在しておらず、『スタンド・バイ・ミー』型の「通過儀礼」ではあったとしても、彼らが本作を通過して「成る」ものが何者であるか、熊が出たり化かされたりと、この世界とどうやら共有されていないらしい「観客側の常識」からは一切伺い知れない。狭い世界を描き続けることで、世界の可能性を抱えたままでいられる少年期を真に描けたとさえ言えると思う(言うまでも無く『スタンド・バイ・ミー』が描いているのは「大人の郷愁」であって「少年」では無いのだが、本作は多くの青春アニメも陥っているその罠をーー怪しいモノローグで陥りかけてはいるがーーギリ回避できている)。

 こうした象徴性は「赤」で強調され、それは思いがけず撮った写真に写り込んでいた予期せぬ可能性だった訳だが、その写真の主であるチボリが空を見上げ、ドローン的視座と融合し電話ボックスの赤いロウマを捉えたかのように錯覚する瞬間、この物語は世界に新しい扉を確かに見つけたのだ。正確にはそのような順番で画面は推移していなかったかも知れないが、とにかく言葉での積み上げる感動や現実に則したリアリティよりも、「カメラこそが世界を作る」映画の規範をしっかり捉えたシステマチックな感触を受けた。

 「次の世界の扉を見つける」為の儀式的構造としての映画。呪術的、SF的でさえあると思うので、青春映画の規範に当てはめてみると本作の感触とズレが生じると思う。

 実は『よりもい』はそこまでは刺さらなかったのだけど、『月のワルツ』『さくら荘のペットな彼女』『ノーゲーム・ノーライフ ゼロ』のいしづかあつこ監督が新しい名刺を手に入れたことにワクワクしました。出来ればまた映画を作って欲しい。