ワイのオスカーはこれや ー 『ベルファスト』感想

 

スタッフ

【監督/脚本】ケネス・ブラナー

【撮影】ハリス・ザンバーラウコス

【音楽】ヴァン・モリソン

【編集】ウナ・二・ドンカイル

 

キャスト

【バディ】ジュード・ヒル【マー(お母さん)】カトリーナ・バルフ【パー(お父さん)】ジェイミー・ドーナン【グラニー(おばあちゃん)】ジュディ・デンチ【ポップ(おじいちゃん)】キアラン・ハインズ【ウィル(お兄ちゃん)】ルイス・マカスキー【ビリー・クラントン】コリン・モーガン【モイラ】ララ・マクドネル【キャサリン】オリーヴ・テナント

 

1969年イギリス、北アイルランド首府・ベルファストで暮らすバディの日常。そこにはお兄ちゃんと両親がいて、おじいちゃんとおばあちゃんがいて、初恋の女の子がいて、そしてカトリックプロテスタントの抗争が激化していた。やがて時代は北アイルランド紛争へと突入していく。

ロンドンまで働きに出る羽目になったお父さんは次第にベルファストを出る選択肢を念頭に置き始めるが、バディにとってもお母さんにとってもベルファストこそが全てだった。ベルファストを出るのか。出ないのか。難しい事はわからないが、ともかくバディの毎日はめまぐるしく廻っていく。

 

自分には「監督:ケネス・ブラナー」の響きそのものを敬遠してる向きがあって、そもそも映画畑でも大活躍のシェイクスピア俳優が余技として有名戯曲をフィルムに定着させたくて監督業にも手を出してるだけ、くらいの解釈だったので、『マイティ・ソー』などを撮り始めた時に「監督業も本気なんだ?」と少々吃驚して、そしてその実力は決して褒められた出来ではないと判断していた。

どうにも鈍重なイメージで、最近のポアロ物もいかにもな企画だなぁと思いつつスルー。ところがここにきていきなりオスカー候補で、半信半疑での鑑賞。

 

結果、吃驚するくらい好みの映画だった。

実は入り口として「ベルファスト」の日常を伝える冒頭シーンはほぼ「歌の無いミュージカル」というか、台詞の掛け合いが非常に演劇の導入的な状況説明を行ってはいるのだけど、それでも本作は映画になっていたと思う。

あらすじを読むと「平和だった僕の日常は戦場に変わってしまった」パターンかと思いきや、開巻早々に暴動は起こり、途中から壊されるのではなく最初から四方ぐるりと平和が壊れた状態で改めて「懐かしい僕の子供時代」が綴られる。紛争にしたって北アイルランドの長い血の歴史の流れの一部に過ぎず、急に始まった訳ではないから暴力によって突然何もかも変わったとするドラマチックな嘘を拒んでいるのはきっと、イギリス人なら皮膚感覚で得心いくところなんだろう。

 

「子供時代を終えた悲劇」と「それでも楽しい子供時代」が共存する矛盾。だけどみんなとてもよく知っている矛盾。

映画はそれ以上ほぼあらすじを必要としない。もしかすると「何故この町で血が流れているのか」の理解もあまり必要としないかも知れない。それを巡る重要な会話も多数交わされているのだが、シェイクスピア俳優がまさか、ここでは台詞に頓着せず空間の豊かさやアクションの魅力にフォーカスをあてている。ジッとして情感を溜める場面がとにかく少ない。

恐ろしい投石をゴミ箱の蓋の「盾」ではじき返す場違いな昂揚。誰かが家の外の便所に座ってお話をする空間の、汚いわとなる、けど抗えない魅惑。

そもそもバディは状況をよくわかってないだろう。時折感じる「怖かった瞬間」のことだけは強く記憶に留めている、程度にしかバディの心の揺れは描写されていない。ベルファストを離れることを言い聞かされた時の駄々っ子ぶりが良くて、世界の複雑さなど吹き飛んでしまう。

このバディはケネス・ブラナーの少年期で、あれだけ古典的戯曲の語り部として務めてきたブラナーが自分の子供時代を語るにあたって急に『トリュフォーの思春期』のような自由度を獲得するのが面白く、面白いと同時になかなか信じられない状態で見ていた。きっと今回は撮影や編集が若いスタッフに変わって、彼らが作風を刷新してくれたに違いない。そう思って検索してみると、みんなちゃんと最近のブラナー組なのだ。これは『オリエント急行』も『ナイル殺人事件』も見なくちゃってなる。

 

この映画に必要な葛藤、「ベルファストを出るか/出ないか」は時折お父さんとお母さんが口論してまかなってくれて、後はひたすらベルファストの街中で、生き生きとした人々の生活(時折、暴力)がザッピング的に綴られる。

お父さんが外の世界の何に触れたのかは映されないが、バディが箱庭の中で見る外の世界は、演劇であり、映画(『リバティ・バランスを射った男』などのジョン・フォードや、ディズニー『チキチキ・バンバン』)であり、そして漫画『マイティ・ソー』だ。観客は当然、これからケネス・ブラナーが外の世界で生み出していくものがそこにあると知る。そもそも非常にわかりやすいベルファストという箱庭の構図が、まるでジョン・フォードの映画に出てくる西部の町の配置のようでもあって、ご丁寧にお父さんは最高に格好良いガンマンにもなる。このベルファストそのものがバディの作り上げた箱庭なのか。。。?

懐かしいだけの過去ではなくて、ここには過去と「今」が混在している。過去から見れば、「今」と未来が混在している。冒頭で現在から始まる構造としては回想形式ではあるが、回想している「主」は不在という奇妙さ。しいて言えば「主」は「カラー」であり、モノクロのベルファストで色づいていたものは何か、と考えると奇怪な構図が見えてくる。

ちょうど『フレンチ・ディスパッチ』で映画を雑誌に変えたウェス・アンダーソンがそうしたように、或いはもしかしたらひょっとして万が一の可能性ではあるけど『三丁目の夕日』シリーズで山崎貴がそうしたかったように、時間芸術である映画から時間の流れを奪い去り、誰にも奪われないアルバムがここにある。

ただ「こう感じるよね」という以上の意味のない走り幅跳びのスローモーション、必ず暴力の気配を帯びてやってくる二人組の逆に楽しい漫画的存在感、バディを万引きに誘う近所のヤンチャなお姉さんの悪びれ無さ、初恋の女の子キャサリンが振り返る窓辺の位置の絶妙さ、しんみりするかと思いきや急に歌って踊る大人たちのいい加減さ。

映画的な重力を保てるかギリギリの軽さで、ずっと楽しい映画だった。

記憶の中では暴力だって時に無効化、或いは他の何もかもと並列化されうるのだという救いでもある。

 

ところで近年の映画界の大物がアメコミ映画をバカにする一連の発言(それはそれで彼らに持ってて欲しい矜持ですが)に対するサミュエル・L・ジャクソンのコメントで、「彼らにはMCUのような映画はいきなり現れたものかも知れないが、(オタクである)私にとっては子供の頃からずっと周囲にあったものだ」という、意訳するとそうした発言があって、それ自体がミスター・ガラスを想起させてグッとくるのもさることながら、本作で幼少期のブラナーの記憶に『マイティ・ソー』が映ることで、たしかにアメコミ映画だって別に最近現れたものではなく、昔からずっと存在していたものが顕現しただけなのだなと、その歴史の線が急に長く伸びたのを感じて目から鱗でした。