銃を杖に ー 『ファンタスティック・ビーストとダンブルドアの秘密』感想

 

スタッフ

【監督】デヴィッド・イェーツ

【脚本】J・K・ローリングスティーヴ・クローヴス

【原案/原作】J・K・ローリング

【撮影】ジョージ・リッチモンド

【編集】マーク・デイ

【音楽】ジェームズ・ニュートン・ハワード

 

キャスト

【ニュート・スキャマンダー】エディ・レッドメイン【アルバス・ダンブルドアジュード・ロウ【ジェイコブ・コワルスキー】ダン・フォグラー【ゲラート・グリンデルバルト】マッツ・ミケルセン【クリーデンス・ベアボーン/アウレリウス・ダンブルドアエズラ・ミラーテセウス・スキャマンダー】カラム・ターナー【クイニー・ゴールドスタイン】アリソン・スドル【ユーラリー・"ラリー”・ヒックス】ジェシカ・ウィリアムズ【ユスフ・カーマ】ウィリアム・ナディラム【ヴィンダ・ロジエール】ポピー・コービー=チューチ【バンティ・ブロードエーカー】ヴィクトリア・イェィツ【アバーフォース・ダンブルドア】リチャード・コイル【アントン・フォーゲル】オリヴァー・マスッチ【ティナ・ゴールドスタイン】キャサリン・ウォーターストン

 

第二次世界大戦が近づき、魔法使い達はその立場の選択を迫られていた。そんな中、マグル(人間)を根絶やしにする危険思想の持ち主で脱獄囚グリンデルバルトが「国際魔法使い連盟」のトップを決める選挙に立候補する。

人々の差別心に根ざしたグリンデルバルトへの支持が危険な広がりを見せていく中、ダンブルドアはニュートに彼との対決を命じ、ニュートは凸凹な仲間を集める。即席チームは世界に散り、グリンデルバルトの野望を止めることが出来るか。そしてダンブルドアは、かつて愛した男と真の決別を果たせるのか……

一方、グリンデルバルトの配下についたクリーデンスもまた、自らの人生の決着を望んでいた。

 

物語に於いて、起こる出来事が「A→B→C・・・Z」と順序立てて進んでいくのはただの「あらすじ」である。これを入れ替え、というより、基本的には飛ばしながら「A→D→G・・・」と進み、時に一瞬「J→B→K」と戻りながら、最後には「X」辺りで留める。行ってしまえば「脚本」とはこうした構成術、省略の美学に基づく、あらすじのプレゼンテーションだ。

ところがローリングの手による『ファンタスティック・ビースト』シリーズの脚本は基本的には「A→B→C」と順序立てて進めてゴールに向かおうとする為、展開に緩急が生じるまでの間が長く、本来なら省略出来る範疇の中でとりあえず完成した掛け合いや見せ場を全て描いてしまう。「描ける」ことと「それを見せる」ことはまるで違うのだが、恐らく彼女はまだそれを知らないし、周囲の人は彼女にその教えを意見できない。

『魔法使いの旅』ではそうした話術の退屈さが浮き彫りになってしまった訳だが、『黒い魔法使いの誕生』ではそこに散りばめた謎、そして来る戦争の予兆とが現実のマグル社会の歴史の暗部と接続し、ファンタジーだと思って見ていた作品が急速に我々観客の現実をその向こう側に現出させ、又、緩やかに集った多くの登場人物が一斉に各々の立場を決断せざるを得ない見せ場をクライマックスとした為、そのカタストロフィによって重たい鑑賞後感を与えてくれた。

とは言え、そうして拡げた話を畳むにあたって結局順序立てた話術の退屈さが消えた訳ではなかったことが今回晒されてしまった。更にキャラの行動を分散させ、各々の抱えた事情が実はさして有機的に繋がりをもたない事で、肝心の主人公ニュートの行動線が非常に弱く、絶えず「何故この行動を取っている彼の姿を今見ている必要があるのか」よくわからないものになってしまっている。

今回完全に善意の人として動いているだけのヒックス先生の存在感が普通に主人公達と均等であることも当然で、彼女が主役らしいのではなく、主役たちからみんな脇役のような薄いドラマ性しか感じられないからだ。

主人公性さえほぼ剥奪されたままコマとして動くのみのスキャマンダー兄弟は置いておいても、ジェイコブとクィニー、クリーデンスの屈折、ダンブルドア兄弟の苦悩、ユスフの裏切り、グリンデルバルトの野望、どの要素を取ってもひたすら一歩一歩驚きのない収束へとそのノロマな歩みを見せつける。

傑作『ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』の監督であるにも関わらずキャリアの大半を『ハリー・ポッター』の脚本家として過ごしたスティーヴ・クローヴスは今回共同脚本として何か仕事をしたのか怪しいものであるが、デヴィッド・イェーツが執心しているのは「ウィザーディング・ワールド」ユニバースに於いて一貫して、政治スリラーとしての魔法世界なのだろう。

大前提からして踏み外している論外の男が、差別思想を剥き出しにした露悪性によって愚昧なる支持の輪を拡げていく悪夢。世界中で我が国のこととして感じられるだろう現在進行形の不安が、そのまま第二次世界大戦前夜のナチスに重なる様の不気味さの演出は本領発揮であったと思う。「国際魔法使い連盟」を仕切るアントン・フォーゲルの存在感こそが本作の白眉であり、そしてフォーゲルを演じるオリヴァー・マッチ的な役を本来得意とするマッツがグリンデルバルトを演じても若干キャラ被りが起こってしまったのは否めない。

これが政治スリラーの世界であれば彼ら彼女らは銃を手にし、人を撃ち殺し、世界は勢いよく戦争に流れ込んだかも知れない。けれど彼ら彼女らの手にした杖は、本人の資質と選択によって人を殺めずに感情の収束へと向かって行く。現実に近づけば近づくほど、ファンタジーの力に託した希望はより切実に、引き金を引く代わりに行われる杖の一振りの小ぶりなアクションに宿る。

であるならばこそ、この卑小なマグル達の世界に宿る「魔法」たるファンタジー映画の力を信じ、より十全に壮大なイマジネーションとビジュアルを発揮して欲しかった。せめてハリー・ポッターの看板を背負っているのだから。