記号から外へ ー 『RE:cycle of the PENGUINDRUM 〔前編〕君の列車は生存戦略』感想

 

スタッフ

【監督】幾原邦彦少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録)

【副監督】武内宣之(打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか? '17)

【脚本】幾原邦彦伊神貴世

【撮影監督】荻原猛夫(グラフィニカ

【編集】黒澤雅之

【音楽】橋本由香利

 

キャスト

【高倉冠馬】木村昴【高倉晶馬】木村良平【高倉陽毬】荒川美穂【荻野目苹果】三宅麻理恵【多蕗桂樹】石田彰【時籠ゆり】能登麻美子【夏芽真砂子】堀江由衣【渡瀬眞悧】小泉豊【荻野目桃果】豊崎愛生【プリンチュペンギン】上坂すみれ【伊空ヒバリ】渡部麻衣【高倉剣山】子安武人【高倉千江美】井上喜久子【池部の叔父】田中秀幸【荻野目聡】立木文彦【荻野目絵里子】深見梨加【九宝阿佐美】早見沙織【鷲塚医師】屋良有作

 

※あくまで最大のネタバレ(原作)は避けています

 

2011年に放送されたTVアニメ『輪るピングドラム』の劇場版。

とある事情から兄妹三人仲睦まじく暮らす高倉家、双子の冠馬・晶馬と、病弱な妹の陽毬。水族館に遊びに行った日、とうとう陽毬は帰らぬ人となってしまう。と思いきや、帰ってきた。奇妙なペンギンの帽子を被り、まるで人格が変わったように口汚い言葉で冠馬と晶馬に命令する。

「きっと何者にもなれないお前たちに告げる。ピングドラムを手に入れるのだ」

さもなくば、再び陽毬の命は失われてしまう。二人はピングドラムと目される「運命日記」を手に入れる為、その所持者である女子高生・荻野目苹果を尾行するが…?

 

ピクトグラムのモブ、地下鉄の駅名が連鎖していくプロップ、高倉兄妹にしか見えないペンギン達の奇行、変身した陽毬=プリンセス・オブ・ザ・クリスタルのイリュージョン空間etc… 記号化された空間で抽象的な探し物を続けるドタバタ劇が、不意に現実と接続しようとするかに見える瞬間へ至る衝撃が今も忘れられない一作。

細かい章題を入れる記号的工夫が画面の世界観を崩さないので、想っていた以上に一本の映画としてまとまり良く様々な要素を盛り込めていた。単純に、この「総集編映画としての上手くいきよう」に驚く一本。

TVシリーズに於いて武内宣之が担当した第9話『氷の世界』。村上春樹の『かえるくん、東京を救う』を探す図書館(そらの孔分室)で急に現れたシャフト的美術世界は、魅惑的ではあるが浮いているようにも感じて(個人的に新房メソッド的な人物の配置にショット連鎖の快楽を感じない為)いたところ、10年後に「起点」として再活用されるのもしてやられた。

もちろん最大の謎の一つを最初から「登場」させてしまっているので後編で訪れるだろうサプライズ味は薄まっているかも知れないが、前編ラストに於いて「来る瞬間」にそれまで積み重ねてきた一見するとポップアイコンであるギミックの数々が完璧に機能するので、もはや「知っていても」「知らなくても」その演出効果の快感は変わらないことが強い。

その上で、その後に二重のクライマックスを用意し、映画としての新規工夫はそちらに凝らしているあたり計算も上々。

 

劇場版の特徴として象徴的な描写は、『さらざんまい』のEDに続いて、冒頭と劇中で二度、実写映像を取り入れていることだろう。あくまでこれは「2011年を舞台とした」アニメであることが重要であるにも関わらず、そこには「(恐らく2021年)現在」が侵入している。その背景には、しかし本編と変わらぬプロップ/アイコンの数々が自然に融合しており、結果として実写世界に佇むアニメキャラという嘘が自然と違和感なく目に馴染んでいる。これは最初からアニメの中に「記号化された現実」を見ていた為だろう。ストーリー面のみならず、感覚としても記号化によってあらかじめ現実と接続しうるリアルが『ピンドラ』というアニメに担保されていた逆説的手法を改めて知る。

「記号」によってリアリティラインの浮遊したストーリーが、「記号」によって現実と接続し、それもまた「過去」になった今、「記号」が今度は現実の映像の中に紛れ込むことで、ちゃんと「現在」と接続する。世界は流転し、輪廻する。

と同時に、「輪る」ことで一度は閉じたかに思えた物語が「外」に広がったという点で、TVアニメを進化させたとも感じる。

現実を想起させる悲劇から大切な人を守る為に閉じた人間関係で完結したとも(しかし最後に残された二人からしてそうでないとも)取れるアニメ版のラストの「その先」が、物語をメインキャラが読み解く形で振り返られ、その先に実写の、そして現在の現実世界を観る時、当然「もうひとつの終着地点」を「後編」に期待してしまう。

「悲劇を過去にしない=未来に繋げる」為に、10年越しのcycleは必要とされたのだろうか。ここに用意された新曲に、やくしまるえつこは「OUR GROUND ZEROES」と名付けた。多くの観客に特定の悲劇を想起させるその話術は、その固有の事件性によってむしろ記号化を深め、それぞれのグラウンドゼロにも置換しうる。

 

とは言え記号に仮託した画面の大半はスクリーン耐用ではないTVアニメ的な密度である訳だが、そこで元から最高に冴えていた楽曲の数々を、ほとんど幾原の弟子筋・古川知宏監督の手がけた『少女☆歌劇レヴュースタァライト』のレヴューの如くフィーチャーしてポイントポイントのフックとして使う手法で、見世物としての興味を追加している。

恐らく総集編映画として巧くいく為に必要なことは、「上手に総集編にする」ことではなく、「その中で見せ場をちゃんと意識出来るか」なのだと思う。本作は「上手に総集編にする」を成立させた上で、あくまで見せ場として音楽を主役に据えている冷静な距離感がある。「伝える」ことと「面白がらせる」ことはまた似て非なるから。

TVアニメ『輪るピングドラム』最大の物足りなさとしてOPテーマ『ノルニル』がフルで流れない、という理不尽な不満をずっと抱えていた身としては、エンドロールで10年越しに果たされた不満解消と、やはりどうしようもなく映画館に合うそのサウンドで充たされていました。

帰りの「列車」の中で交互に聴く『ノルニル』と『wi(l)d screen baroque』の得も言われぬエモさ。この列車の辿り着く先で、後編が何を示してくれるのか。そこに輪の「外」があっても嬉しいし、例え内側で閉じたままでも、そこで『少年よ、我に返れ』のフルが流れれば結局はこの甘美な円環に抗えず浸ってしまうのだろうと思うけれど、この列車は山手線ではなく丸ノ内線なのだ。

 

※『氷の世界』を見返したのですが、今見ると言うほどシャフトシャフトしてないですね。そして単独で見ても本当になんとも言えない気持ちになる… 初見ではこうはならない、なれない作りにはなっているので、映画として再見を促す価値はそれだけでも十分に。