everything by WIRED:2022年のlainから ー 『ハケンアニメ!』感想

スタッフ

【監督】吉野耕平

【脚本】政池洋佑

【音楽】池頼広

【撮影】清久素延(J.S.C)

【編集】上野聡一

【アニメーション制作】Production I.G

 

キャスト

【斎藤瞳】吉岡里帆【行城理】柄本佑【王子千晴】中村倫也【有科香屋子】尾野真千子【並澤和奈】小野花梨【宗森周平】工藤阿須加【群野葵】高野麻里佳【根岸】前野朋哉【越谷】古館寬治【白井】新谷真弓【前山田】徳井優【関】六角精二【川島】大場美奈【ナレーション】朴璐美

 

 一度映画館で観た予告編のいかにもなテイスト、明らかに2022年の業界の実態と噛み合っていない「ハケン」なる言葉や周辺設定のリアリティ問題、そもそも今全然映画館行けてないし優先してみるのもな~、なんて思っていたけれど、観てみれば杞憂でした。

 

 冒頭、散らばる絵コンテの上に立った鉛筆*1。「幾重もの虚構のシーン」あるいは「複数のレイヤー」の上に立つ、これから生まれる物語/物語を生み出しうるモノ。

 この宣言がほぼ全て。「散らばる絵コンテ」と「鉛筆」の切り返しで出来た映画。

 続いてアニメ現場の長回しシークエンス。最近長回しが印象的な映画を続けて観ていて、どうしてもラストで何が起こるか、そしてどこへ切り返すかの一点へのフリと感じてしまい飽きが来ていたのですが、本作長回しの中に段取り的見せ場はさして用意しない代わり、カメラがモニターの中に吸い込まれて、ワイヤーとも信号ともつかないCG(アニメ的なるもの)の束と融合し、その反対側にいる別シーンの人物たちがPCと向き合っているショットの切り返しに繋げる。

 では、この「長回しの終着点」は正確にはどの地点に当たるのだろう。

 実写なのか。アニメなのか。もはやその境目は融解し、一つの束になって流れて世界を形成する。

 明確である筈の現実の切れ目の不確かさ。まるで複雑なレイヤーの果てにネットの海へ消えてしまった草薙素子のように。いや、本作は「聖地秩父」を取り上げ、わざわざアニメで有名な地名も沢山出しながら肝心の秩父三部作のことは不自然に口端に上らせない(*2)。つまり大事な作品ほど触れていない筈なので、劇中触れられた草薙素子より岩倉玲音のほうが重要なのだとこじつけてみよう。事実、冒頭でたしかに思い浮かんだのだ。『serial experiments lain』のOPでモニターの向こうからこちらを覗くレインの姿が。そして、彼女の面影はラストにも確かに。

 


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 まず最初の懸念、「予告編のいかにもなテイスト」。

 池頼広の劇伴は最小限、それもフィルムに寄り添うささやかなセッション程度に抑えられていて、おふざけテイストが強調されることは無い。真顔で「やたら有名なアニメミームが台詞に混ざる」という点はいかにもなテイストと取られても仕方ないのだけれど、大半が『ガンダム』から来ているそれらは文字通り「視聴率競争という戦場」の継続を示す機能も持っている。何より日常会話の中でもすでに現実のレイヤーがアニメと混合されていることの実態として受け取れるだろう。

 基本的には静寂が作業音、都会のビルの外側で何かしらの機関が駆動する音を浮き立たせ、音楽を感情表現としてはほぼ使っていない。

 イベント会場に居合わせたような照明の黒と檀上の二人以外をボヤかすフォーカスもスクリーン体験ならではの画面になっていて、音、画、その両面で、テレビや配信でいくらでも追体験可能な「いかにもな」作りには背を向けているのは確かだ。

 たぶん映画ファンで、序盤で「観に来なければ良かった」と後悔する人はそういない。そう言えるくらいには映画への意識がとても高い。シネコンでかかる、それなりにお金のかかってメジャー邦画でそれは、それだけで貴重なもの。

 

 次いで時代と齟齬を起こす業界的リアリティの問題。

 たしかに配信ビジネスが主流と化した現在に於いて「(円盤売り上げの)ハケン」という言葉がすでに過去のモノ、更に輪を掛けて「ハケン」がのさばっていた醜い時代に於いてすら「アニメ視聴率」はもはや過去のモノだった筈だし、またアニメ制作の現場のリアルとしてはすでに『SHIROBAKO』が2クールかけて描ききっている。大体視聴率云々言い出したら上位はン十年と続く老舗アニメに独占されているのだから、そんなことは原作執筆時にさえわかっていたことだろう。

 本作に登場する業界も冒頭の宣言通りファンタジーであり、あくまで映画の中で、多くの現実のメタ要素も取り入れながら「新たに組み上げられていくリアリティライン」をさえ信じていればそれでいいのだ*3*4

 

 じゃあ、その「新たに組み上げられていくリアリティライン」とは何か。それこそが「散らばる絵コンテ」に表象されている。

 たとえば今更アニメと現実の二項対立で語られても、もはや現実さえ思考や人格を仮託した二次元上の存在や登場人物たちが口にするようなミームにまみれてピンと来ないように、2022年の現実のレイヤーは様々に重なり合っている。

 その複雑化したレイヤーの上で、普遍的な対立項を設けるとしたら。

 本作、切り返したカットで睨みを訊かせる主人公・斎藤瞳に全てを託す。その時、逆に彼女が見据える先では全てが「散らばる絵コンテ」として、一つの世界を形成しているのだ。メタ的な情報が多ければ多いほど、それら全てを瞳ひとつで瞳が見返すカタルシスは強化される。ここで対峙するのはアニメと現実ではなく、世界と瞳。

 

 ところで冒頭の長回しはすべてのスタッフを対等に映すように思わせて、以降、スタジオを映す際にはガラスのフレーム越しに固まったまとまりで引きの画で捉えることが多い。その手前で縦に行き来するのは基本、瞳の特権だ。

 「散らばる絵コンテ」の上に屹立する創造神、監督の特権。

 こうした集団と個を隔てるショットは孤高の天才監督・王子千晴の仕事場を手前から奥に向けて映す画にも感じられる。

 本作のショットは、「散らばる絵コンテ(複雑なレイヤーで満ちた現実)」と「鉛筆(その上で創作する神)」とに二分する。

 

 こうして神たりえているのが瞳、王子、加えて実はブースの奥/手前で隔たれた声優の群野葵なのが、業界への畏敬を感じさせ、構造としては少し奇妙な出っ張りだが、やはりオタクとしては面白かった。

 声優の立つアフレコブースを移す際、ガラスケースの向こうに隔てられて瞳らスタッフは青白い照明でレイヤーの向こう側におり、ここに「瞳の見ていないもう一つの世界」があることは最初から観客には知らされている。神というかキャラクター側か。

 あのみんなに挨拶はするけど瞳は無視した時の群野の顔の見えなさ。正直、群野、ストーリー的には急に良い子になって、あの時のイヤな感じは最後まで別に解消されてない(その複雑性を許された登場人物が他にいるだろうか)。

 ただ、瞳と和解する際に、群野を演じるマリンカの発するあまりにリアリティを欠いたアニメ声での台詞が、最初は群野のアップではなく瞳のアップに合わせて重なる。ここは少しズラした(そのあとは普通に台詞に合わせて切り替わる)編集で、まるで瞳がキャラクターと和解したかのような錯覚を生じさせていた。

 

 リアリティも無視してミームが混在する「散らばる絵コンテ」を撮影としてはクールなショットにまとめ続けているのが本作の白眉だと思うのだが、とは言え、画面外のメタ情報はたしかに多すぎる。

 元ネタが浮かんでしまう実在の人物たち*5、実在の作品たち*6、非常に今日的なガジェットと、まるで今日的ではない配信時代を無視したディティール。

 こうした「散らばる絵コンテ」的なリアリティラインは、業界の内側だけではなく外側にも働く。

 駅に佇む人々のSNSと電車の車窓の外を走る「視聴率というアニメーション*7」に象徴するように「二次元も三次元もリアルもフィクションもなくすべて連れて行く」ことで、閉じたミーム遊びからも一つ抜け出せたのではないかと思う。秩父側のストーリーを置き続けることからもその健全な意志は明白*8

 個々の業界描写、SNS描写が現実と照らし合わせて近いか近くないかという意味での「リアリティ」には最初から背を向けていて、現実も虚構も等しく束ねていく意志。電車の車窓を走るものは「説明の為のアニメ」ではなく、これが映画で、そこに例えアニメであれ動態として映りアクションしたものは「それこそがリアル」なのだから。

 

 そもそもリアリティを大事にしている世界が、有科を囲む「業界」を、何百番煎じのゼーレにはしないだろう。

 ところでこのゼーレ会議、話の展開に合わせて有科の後方左右に移る人たちが少し近づいていると感じたのは気のせいだろうか。

 「いつ切り返すか」と同じくらい、ショットのサイズ感でドラマ性を高めようとしていると感じた箇所が多々見受けられたことは覚えておきたい(もう詳細忘れましたが)。

 

 ラスト、神たる瞳が「刺され」と夜景に祈る時、そしてマンションから階下の子供たちを見下ろす時、そこに草薙素子を、そして現実からネットの世界に溶けて消えた岩倉玲音を重ねて幻視してしまった。

 神の創造物は、そうしてまた平面に降り立ち世界を循環していくのだ。

 本作はアニメ賛歌であると同時に、現実に溢れている数多の非/現実的なレイヤーを、いずれ誰かを救うものとして肯定的に讃えている、SFに似たドラマなのではないかと思う。

  lainの時代にはまだ薄暗く感じられたかも知れないけれど、今ではその「散らばる絵コンテ」が、世界を繋げる無数の見えない線が、思っていた以上に人の手作業を離れることはないことも、時に孤独を掬い上げることも、より知れ渡っているのだから。

 

 ところで切り返し、主にバストショット以上の人物サイズの差異、それともう一つ、「声」への拘りを感じる映画だった。ブース内に佇む本物の声優陣や、王子千晴の側のスタッフにいる中年男性のやたらに渋い声もそうなのだけれど、冒頭とクライマックス、スタッフ代表として最初に声を発し場を起動させる主が、アニメ、実写、舞台とマルチに活躍する、アニメーター役の新谷真弓なのだ。

 彼女の声優としての代表作と言えば、古くは『彼氏彼女の事情』『FLCL』から現在では『SSSS.GRIDMAN』になるだろう。それらのアニメはどれもエンドロールで、もしくは最終回で、アニメと実写の境目を融解させて、私たちの意識を作品の外へと、次の世界へと向かわせてくれるものだった*9

 

*1:本作の宣伝イベントに登壇した『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』の古川知宏監督によると、Uniの鉛筆

*2:その三部作最後のヒロインの声優を務めた吉岡里帆主演なのに!

*3:物語の外側で主人公を応援しているアニメショップの店員の名前が「宮森」で、本当に「ここで描いていないことはTV『SHIROBAKO』を見てくれ」なのかも知れない。逆に期待外れだった『劇場版SHIROBAKO』で描くべきは、いっそ細部はこのくらい抽象化した上での絞り込んだドラマだったのではないか

*4:そもそも『SHIROBAKO』にしても放送当時「リアルとは少しズレている」とは言われていた訳で、でも今ではリアリティある現場モノとして語られている。また、この日この映画を観たイオンモールで、かつて『SHIROBAKO』秋祭りという一日がかりの大盤振る舞い無料イベントに参加したのだが、その際、名物P永谷敬之氏が既に「円盤の売り上げなんて視聴者は気にしないでください。それよりもファンが声を上げて楽しみ続ける方がスタッフをその気にさせ、続編に繋がる可能性はよほど高い。そういう時代になりつつある」旨呼びかけている

*5:主役像は松本理恵とイクニでほぼモデル確定だが、となると行城は川村元気なのか? うわあああああ

*6:片方は最終的に『劇場版少女革命ウテナ アドゥレセンス黙示録』になるとは言え、なにげに劇中劇『サウンドバック 奏の石』と『運命戦線リデルライト』はどちらも『ぼくらの』から派生した双子のような印象を受けた

*7:これは細田守であったり『ガッチャマンクラウス』を想起しましたね

*8:小野花梨の「こういうアニメーターいそう」感素晴らしい

*9:書く場所見つからなかったのでダメなところとして、本当にSFとしてさえ描き得た内容なのに、細かいところでベタなディティールが悪目立ちして、とうとうラスト手前のタクシーのシーンで悪い意味でピークを迎えてしまったなと。エクレアはまだわかるけど、ボクシングだったり「リア充」を巡る掛け合いだったり。もっとソリッドな映画として振りきって欲しかった