さよならノスタルジア ー 『ぼくらのよあけ』感想

 

スタッフ

【監督】黒川智之

【原作】今井哲也

【脚本】佐藤大

【アニメーションキャラクター原案・コンセプトデザイン】pomodorosa

【アニメーションキャラクターデザイン・総作画監督】吉田隆彦

総作画監督】草間英興・谷拓也・植田羊一

美術監督】谷岡善王

【撮影監督】國重元宏・難波史

【編集】黒澤雅之

【音楽】横山克

【アニメーション制作】ゼロジー

 

キャスト

【沢渡悠真】杉咲花 【ナナコ】悠木碧

【岸真悟】藤原夏海 【田所銀之介】岡本信彦 

【河合花香】水瀬いのり 【岸わこ】戸松遥

【沢渡はるか】花澤香菜 【沢渡遼】細谷佳正 【河合義達】津田健次郎

【二月の黎明号】朴璐美

 

 2049年、夏。

 阿佐ヶ谷団地に住んでいる小学生の沢渡悠真は、間もなく地球に大接近するという”SHⅢ・アールヴィル彗星”に夢中になっていた。

 そんな時、沢渡家の人工知能搭載型家庭用オートボット・ナナコが未知の存在にハッキングされた。「二月の黎明号」と名乗る宇宙から来たその存在は、2022年に地球に降下した際、大気圏突入時のトラブルで故障、悠真たちが住む団地の1棟に擬態して休眠していたというーー(公式サイトより)。

 

 2011年に刊行された今井哲也の傑作SFジュブナイル漫画『ぼくらのよあけ』が10年の時を経て映画化された。企画そのものには驚くと同時に、内心「やっとか」という思いもある。恐らく耐えずアニメ化の機会を窺っているファンはいたのだろうと考えていたから。

 以前「某配信サイト」用に、間接的にではあるが企画を提出する千載一遇の機会を頂けたことがあって、当時は企画書の書き方一つ知らなかったので出来は惨憺たるものではありかすりもしなかったが、その際使用した原作が『恋は光』。この作品が実写映画化すると知って間もなく、『ぼくらのよあけ』映画化の報が入った。

 原作モノの映像化の企画コンペと聞いて真っ先に思い浮かべたのが、『恋は光』と『ぼくらのよあけ』だったのだ。実写なら『恋は光』を、アニメなら『ぼくらのよあけ』を推そうと。

 それから、きっと似たような考えの人は沢山いる。どこかでそう信じていたのだと思う。

 

 

 「団地」「少年期」「ナナコ(『学校の怪談2』!)」と、自分の中のノスタルジィ全てにクリティカルヒットした原作だったが、映画版は意外にもこのノスタルジィをあらかじめ剥がした状態で作られている。

 まず3Dに寄せたグラフィックはSF的な立体感を強調し、生活臭や郷愁を大幅に後退させる。

 原作の逐一が面倒臭いリアルな子供達の会話も、どこか常にわざとらしいカギ括弧付きの「サブカル的若者っぽさ」を描き続ける佐藤大のテイストに中和されていてスムーズに運ぶように感じた(何故かそういう人と思われているが、佐藤大さんは未だに本当の「若者っぽさ」を描けた事はないと思う。松本大洋はいてもクドカンのいない世界線を通って来た人みたいな印象だ)。

 そんな中にあって、上下巻ある原作をギュッと凝縮して取捨選択した中から、「ナナコ」の儚さ、いじらしさだけはCV.悠木碧(エンドロールまで気づけなかった!)の力もあって的確に抽出され、シンギュラリティを起こしメメント・モリを覚えたAIの孤独を強く想起させ、また人間と違って原作とさほど変わらないシンプルなデザインの表情、一本線の目と細い眉の動きだけでもう、たまらんくらい切なく愛着を抱かせる。

 ここで慈しむものはナナコだけでよく、後は全て記憶の中で美化されていくノスタルジアに過ぎない。そんなものは大気圏でパージしていく映画だ。子供達が飛び立つ為に邪魔なのだから。

 

 ところで最近、アニメの制作本数増加に伴って大きな変化がいつのまにか整っていると感じる。十年前、放映/公開されるアニメを全部見るぞという勢いで見まくっていた頃は、それでもあくまでアニメは幾つかの枠としてのテンプレートを除けばてんでバラバラな点と点として、作品同士は繋がることなく散らばっていた。

 けれど今は、バラバラに作られたアニメの点と点がいとも容易く線で繋がって星座を描けるのだ。大して見ていなくても。

 『ぼくらのよあけ』が公開される2022年にもまた『地球外少年少女』や『雨を告げる漂流団地』が公開され、片やSFジュブナイル、片や団地ジュブナイルとして本作と回路が接続している。

 当然『地球外少年少女』は『電脳コイル』と繋がっており、『電脳コイル』が少なからず『ぼくらのよあけ』原作に影響を与えているのではと推測する。まぁ『地球外~』まだ見終わっていないのでここまで(ただ滅茶苦茶面白いです)。

 『雨を告げる漂流団地』は「某配信サイト」で視聴していたが、かなり強烈に『ぼくらのよあけ』の影響を感じ(落下と死のイメージが繰り返し出てくる。その恐ろしさがバラバラで徹底出来ていないのだが……)、映画化で切り捨てられた「団地ノスタルジィ」にこそ主眼を注いでいる作品だった*1

 そこでは既に解体寸前の団地から住人は撤去しているのだが、わざわざ団地に引っ越して作品制作にあたったという石田監督の「団地憧れ」に、同調と同時に非常に座りの悪さも覚えた。

 「団地映画」というと何が思い浮かぶだろう。

 近年では韓国の『はちどり』、フランスではまるで前後編のような繋がりを持つ『レ・ミゼラブル』『アテナ』、少し遡るがイギリスの『アタック・ザ・ブロック』、そして過去を照射し歴史を繋ぐ、アメリカの『キャンディマン』最新作がある。

 日本だと『誰も知らない』『どこまでもいこう』が挙がるだろうが、流石に古いような気もする*2阪本順治『団地』は未見だが、なんとこれも宇宙人が団地に訪れるSFらしい。

 これらの作品に於いて「団地」はただの舞台装置ではなく、「そこに暮らす人々の経済的状況」と一体化してドラマの一部を成している。

 『雨を告げる漂流団地』には徹底してこの要素が不在で、生活の場ではなくテーマパークとして無邪気に消費されている気がしたのだ。食料として無限にブタメンだけが出てくるあたりにも貧困への想像力の乏しさを感じてしまった。

 原作『ぼくらのよあけ』は極端化しない現代と地続きの経済感覚がリアルに設定されているのだが、わずか十年でそれさえどこか理想的な環境に思えてしまう節がある。リアルな団地要素が今では少し『雨を告げる~』同様にノスタルジィを機能させる為だけのアトラクションじみて感じられる。

 映画版では、あらかじめこの団地そのものとも別れるものとしてリミットが設定されている。

 

 また原作後半に色濃い大人たちとの共犯関係もだいぶ薄れている。

 真にノスタルジィに別れを告げて、ただ未来だけをここから始める。原作以上に「子供たち」の視点に寄り添った映画になったのではないだろうか。

 ノスタルジィの描写を目減りさせながら、同時に宇宙や「虹の根」のビジュアルイメージは原作を遙かに膨らませてスクリーンに広がる体感を与えてくれる点からも方向性は明白。

 SFジュブナイルと言いながら大人の為に作られた作品が多い中で、郷愁の匂いが脱臭されている事に、寂しさと同時に深く納得のいく自分がいた。

 それ故に薄れてしまったものが沢山ある映画なのだが、それだけに最後にすべて切り離して旅だっていくナナコと二月の黎明号、その遠い未来を目指すと決めた悠真の決意だけがよりシンプルに引き立って胸を打ったのだ。

 

 ナナコォ~……!!!

 

 

 ところで今、団地のリアルを切り取っているのはhiphopだと思うのだが、この二曲を連作として捉えると、なるほど団地とブタメンもまぁ繋がるのかとひとり肯いてみたりした*3


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*1:花澤香菜が片や親、片や子供で出演している

*2:タイトルからしカナダ映画まんまでガッカリした『みなさん、さようなら』には今井哲也佐藤大も宣伝強力しており、大々的に「団地映画」と銘打っていた気がするが、そこまで好きな映画じゃない

*3:hiphopにしてもANARCHYや鬼『小名浜』などを指して尊敬するライムスター宇多丸氏が「日本にも団地というスラムがあったー」ときゃっきゃしていたのはイラついたので、どこまでも部外者にとってはテーマパークなのかも知れないが。C.O.S.Aの抑制されたLyricsはちょうど良いと思う