そして私が始まる ー 『舞台 やがて君になる Encore』感想

 

劇場:品川プリンスホテル クラブeX(エックス) 11月25日(金)~12月4日(日)

 

スタッフ

【原作】仲谷鳰

【演出】上野友之

【脚本】鈴木智

【美術】乗峯雅寛

【音楽】MARINA NEO

【ステージング】古澤美樹

【映像】川崎貴司(TSUMIKI)

【照明】田中徹(テイク・ワン)

【衣装】木村春子花桃ワードローブ)

【ヘアメイク】茂木美緒/杉浦なおこ/嘉山花子

【稽古場アンダー】中村美友

【プロデューサー】辻圭介(トライフルエンターテイメント)

【主催・制作】トライフルエンターテイメント

 

キャスト

【小糸侑】河内美里

【七海燈子】小泉萌香

【佐伯沙弥香】礒部花凜

 

【槙聖司】瑞野史人

【堂島卓】小田川颯依

【叶こよみ】春咲暖

【日向朱里】大石夏摘

【児玉都】北原侑奈

箱崎理子】田上真里奈

【久世会長/アンサンブル】

【市ヶ谷知雪/アンサンブル】

【吉田愛果/アンサンブル】

【五十嵐みどり/アンサンブル】

 

初演感想。

pikusuzuki.hatenablog.com

 

朗読劇感想。

pikusuzuki.hatenablog.com

 

からの、念願だった初のやが君生観劇。

『舞台 やがて君になる Encore』初日初回、そして大千穐楽、観劇させて頂きました。

 

小泉さんが二番手に名を連ねる舞台が連日満員の大盛況でチケット争奪戦になり、会場が熱気に包まれている事、そしてすべて後追いで一年間現場を追い続けて来て、とうとうここに「小泉萌香」を織り成す重要要素の一つのゴールに間に合えたことで胸がいっぱいです*1

 

なのですが、同時に不思議なくらい冷静な自分もいたのが今回の観劇の印象的な点でした。

それは舞台やライブがもたらす、編集の無いどこか歪な混沌がここには無く、三年半、シリーズ三部作全45公演をかけて枝葉を刈り込み、研ぎ澄まされた構成の淀みなさのお陰で、静かな熱中を得られたからだと思います。

本来は複雑極まるサイコロジカルなストーリーを、まるで数式で紐解くように端正な構成で魅せてくれる。それこそはあらゆる言葉、そしてコマ割りが理知的に情動を整理した上で視覚化し、言語化していく、『やがて君になる』という原作マンガ及び『佐伯沙弥香について』という小説が持つ最大の魅力で。

コマの映像的再現に際して流麗な作画で並び立とうとしたアニメ版もそうかも知れません。

なので、すべて見届けた後の、意外なくらい冷静な今の自分も含めて、原作の持ち味を媒体に合わせた表現手法で完全に再現し得た、2.5次元舞台の一つの金字塔をここに打ち立てたのだと感じています。

 

 

初日マチネ。

予習したての『佐伯沙弥香について』よりうんと小さなステージだったのだろうと思い込んでいましたが、実際には同じクラブeX。

そのくらい、狭く、小さなステージだと感じました。いえ、大抵の舞台やイベントは開幕前は「意外と小さいな」と思ったとしてもいざ公演が始まってしまえば、役者がその板を広く効果的に使うことで次第に奥行きが生じ、広い世界だと感じるものですが、そういう事ではなくその小ぶりさが終始変わらない印象。

無駄な装飾を省いて、役者を観客の前に立たせるのだという意思を感じます。

役者間の距離感がソーシャル・ディスタンスとしても物語が要請する演出としても必要であった『ささつ』とはむしろ真逆。再び侑と燈子のキスシーンを再演し、今度はアングル的にもしっかり観客に見せることと、この役者と観客にある距離感の親密さもまたリンクしているのではないか。

ここにある感情の共有。複雑な心理ドラマも、もはや十全に解析して舞台の上に再構成して、観客と共有する事が出来ているという自信。何より、その再構成に役者自身も積極的に関与してきた、その理解力の深さと芝居の成熟がもたらす感情の密度。

 

決して大げさなアクションがある訳ではないが、無駄なアクションも皆無に近い細やかな感情の変化を、侑・燈子・沙弥香が耐えず一点に集中して解放し、同時に互いの情動に心を委ね、素直に相手にリアクションし合っている。

ここまで役者が「確信的に演技をしている」様を、生で見ることが出来たのは初めてだった気がしています。

特に三者が互いの芝居を見つめている時の表情に何より真に迫った情動を感じました。

 

キチンと『ささつ』の長い物語から切り抜かれた一部であるという、大河を背負った礒部花凜さんの演技が役柄動揺もっとも大きな感情として迫る。のは勿論、その対比として、自分でも知らず感情を押し殺した七海燈子の心のガードがありありと伝わってくることに鳥肌が。男ならず全ての人間を射落とすであろう、甘くとろけるような顔で侑におねだりし、そしてキス。。。を目の前で目撃してさえ尚、その「感情の欠落(制御といった方が近い)」がそこにある小泉さんの前半の芝居。

繰り返しますがやけに冷静に見られたのですが、同時にそうしたシーンを「冷静に」見れている事自体に、小泉さん、及びやが君カンパニーが築いてきた、非常に複雑な心理への理解度、再現度の深さを改めて納得させられた次第。

感情がその場その場で完結せず、3つの流れを耐えず意識させられるから。

 

同時に、この精度で三時間微細な感情の揺れを再現し続ける舞台を14公演繰り返すのかーーと、舞台というシステムの途方も無さに思いを馳せながら間を置くことしばし。

 

 

最終日。シリーズフィナーレを飾る大千穐楽。再び足を運ばせていただきました*2

 

初日からして高かった精度が更に上がっている。

職人の手つきを見るように、やはり侑・燈子・沙弥香の複雑な心理の微細な変化を、しかしハッキリと明瞭に伝えられるという半ば矛盾したドラマを、舞台装置諸々の小技をほぼ排した文字通りストレートプレイで全身で浴びることが出来ました。

余談ですが初日は疲弊した状態で赴いていた為、大千穐楽は体調を万全に整えて挑む事が出来たのも大きいと思います。体調調整大事。

 

基本的にメイン3人の変化は表層から内面への気づきに到る経過を描くもの。

・「知らない」状態である自分を、「出来ない」人間だと思い込んでいる侑。

・姉の表層を纏い、自分を好きにならない人が好きという矛盾を抱える燈子。

・既に傷ついたからこそ今を表層でやり過ごし、「いつか」を待つ沙弥香。

 

前半から中盤に到る芝居では、侑は燈子から新しい感情をたくさん受け取る事で自分自身を「発見」し、燈子はそうして自分が与えたものに気づかず「自分」を見つけることもなく殻に閉じこもり、既に自分の「発見」を終えた上で殻に閉じこもる沙弥香はこの関係性の外側に視線を向けて出会いを果たす事で、世界の中に居場所がある事を少しずつ認識していく(同時に、燈子から視線が逸れてしまってもいる)。

段階としては沙弥香はひとり先へ行き過ぎてしまい、燈子は足踏みをし、侑は素直にこから一歩ずつ歩き始めている。それぞれ歩調はバラバラ。

ところが生徒会劇がその歩調のバラつきに変化をもたらす。

 

ここで休憩が入り、後半で観客は劇の一部、「生徒会劇の観客」としてその変化に立ち会う。

初演でも描かれたように、それは足踏みをし続けていた燈子が役の、「舞台の」力を借りて他者と出会うことで、自分が纏っていた「姉」の魂を葬り、無防備にありのままの他者を受け入れられるようになる為の喪の儀式。

一番遅れて自分を「発見」した燈子が、ここでフラットな状態になる。歩く位置は違っていても、三人の歩調が合う。

そんな燈子に、もはや「知らない」自分ではない事を知っている侑が、そして「いつか」が訪れた事を受け入れた沙弥香が思いを伝え、そして燈子の選択が描かれる。

「好き」という言葉の結果ではなく、「好き」という言葉を発する主体を発見するまでのドラマが『やがて君になる』という響きと呼応する。

彼女たちはこうして他の誰でもない「私」になったのだ。

 

内に秘めた感情を互いに確かめ合うようだった前半の芝居の転機となるのは、侑から燈子へ向けられる悲鳴にも似た怒号の叫び。

恋の終わりであると同時に、〈私〉を発見した沙弥香の世界の広がりを伝える京都編では本公演でもっとも舞台装置が数々機能して、侑と燈子が共有するプラネタリウムにも負けない沙弥香の心の宇宙の拡がりをそこに伝える。

そして甘えた仕草と本質的な殻を同時に体現していた燈子が、より柔らかくなって演じる「しょっぱい」キス。初回では二人が互いに涙を濡らしてキスする様を肉眼で観測し、本当に見ていて自分の舌までしょっぱさが伝播してきました。忘れない。

みんな、本当に名演。

 

そして生徒会劇を経ていよいよ演劇空間の一部と化した私たちは、彼女たちを真剣に客席から見つめることで、耐えず〈世界の客席〉にいる「槙」くんと同化する*3

燃え落ちないキリン。

数多の複雑な恋心を描きながら、その恋心をさえ持ち得ない彼と同化した観客は、あらゆる「私」が存在するこの世界の豊かさの一部になっているのだと思いました。

それぞれが、「私」の形を発見出来るように。

 

 

 

つまり最後のもえぴの挨拶は、本公演を経て/原作とリンクし/観客への願いとなる、トリプル・ミーニングでさえ。

 

 

トライフルエンターテイメントではこの数年多くの社員さんが退社されたそうです。

佐藤和斗さんはささつの公演が役者として最後の舞台でした。

自分は今これから小泉さんの「次の舞台へ」観劇に向かう直前、慌ただしくこの記事を書いています。

原作ではこの後、七海燈子もまた舞台女優として次の舞台へ向かう(「舞台」の上で「私」を発見した彼女もまた業深い舞台少女なのだ)事を思うと、今もどこかで暮らしている彼女たちが想像に難しくありません。

 

侑と、燈子と、沙弥香の息吹が、私たちの生活と歩調を同じくして感じられる。

それは長い月日と数多の障害を乗り越えてきた『やが君』が、生きた舞台となった証なのでしょう。

 

カンパニーの皆様へ。

 

本当に本当に、お疲れ様でした。

 

 

小糸侑と七海燈子で、『点描の唄』

nana-music.com

*1:ともかく一つ一つの仕事が線となり螺旋となり上昇していく独特にして幸せなキャリアを描いてきた方なので、重要要素が多過ぎるのですが

*2:一度は落選しどうしても諦められなかったチケット。フォロワーさんに感謝してもしきれません

*3:奇しくも三公演すべて異なる役者である事が、かえって槙くんを槙くん、より遍在的な、我々観客と同化可能な存在にしている