スクリーンの澱に沈み、ステージの闇に蘇る ー 『舞台 私立探偵濱マイク -我が人生最悪の時-』感想

 

スタッフ

【脚本・演出】西田大輔

【原作】林海象(『私立探偵 濱マイク』シリーズ)

【舞台監督】清水スミカ

【美術】角田知穂

【照明】大波多秀起

【音響】前田規寛

【映像】川崎貴司

【衣装】瓢子ちあき

【ヘアメイク】井上まな

【大道具】Carps 美術工房いろあと

【小道具】平野雅史

【装飾】高津装飾美術

【振付】赤沼秀実

【歌唱指導】Yuko

【中国語指導】朱永菁

 

キャスト

濱マイク佐藤流司

【楊海平】寺西拓人

【星野】矢部昌暉/宮本弘祐

【楊徳健】椎名鯛造

【濱茜】小泉萌香

【王百蘭】七木奏音

【中山刑事】和興

【エースの錠】佐久間祐人

【アンサンブル】書川勇輝、本間健大、岡本麻海、市川絵美、田上健太、中土井俊允

 


 父の影響で子供の頃『私立探偵濱マイク』三部作、即ち『我が人生最悪の時』『遙かな時代の階段を』『罠』にハマり、当然連ドラ版も視聴、その後なんだかんだで自分の人生の節目節目にその存在が顔を出してきた濱マイクが、ここに来て我が人生最愛の推しとリンクするなんて。

 事前に上演されていた朗読劇版を寡聞にして知らなかったので、秋の第一報はどこか笑ってしまうような衝撃を受けました。柏の謂わば「名画座」であるキネマ旬報シアターで『ボイリング・ポイント/沸騰』を観た際にTwitterで知ったので、濱マイクの報せには似合いのタイミング。

 

 ーー混乱してますね。

 同時にどこかこの一年半で馴染んだつもりでいた2.5次元舞台(と、いう概念に本作が該当するかわかりませんが)への「舐め」が自分にある事も認めざるを得ず、しかしこのキービジュアルだとどうしても「これが濱マイク~?」「濱マイク、アニメじゃないんだけど」という戸惑いは否めず。

 

 直近に小泉さんの舞台キャリアの一つの到達点とも呼べる『舞台やがて君になるEncore』を見届けた後なので、正直そこまで期待値を上げずに鑑賞臨んだのですが、、、

 

 

 ーー結果、現場に通い始めてちょうど一年、こと観劇に於いては過去イチというくらい充実した舞台体験となりました。

 序盤、キャラクター紹介や狂言回し的な存在として小泉さん演じる濱茜がカメラを構えたりちょっと踊ったりしてステージ全体に目配せや移動を繰り返すのですが、おそらくこの時点で舞台のマジックに呑まれている。空間が奥行きを伴う。サンシャイン劇場と言えば『はめステ』でもお世話になったのに、まるでワンランク上のより「広い」劇場で観ているかのような感覚が今もハッキリ残っています。

 開演、横浜日劇のネオンを照らすレーザーに始まり、アクションシーンでの特殊効果との融合、「指」探しにステージに降りてくるキャスト陣、異国情緒に手を抜かない映像や中国語字幕、第四の壁を破る茜と星野くん等々、舞台上で使えるあらゆる手が的確に使われて、その中で濱マイクはどちらかというと大人しく、素直に物語に翻弄されていく。マイクは不良から抜けきれないが正義感に熱い大人子供で、言ってしまえば社会のハンパ者。その野良犬っぽさがかえって引き立つ。

 演出のレイヤーすべてをたばねて、あるいはぶっち切って幾度となく舞台から客前まで飛び込んでくる感覚を与えるのはマイク以上に、映画版では南果歩が演じていたキャラに大幅に見せ場を付け足して膨らませた、七木奏音演じる「王百蘭(ワン・バイラン)」によるキャバレーの歌謡ショーの数々。

 吃驚するほどオリジナル版を忠実になぞるストーリーと、その語り口の多彩さが、いつしかオリジナル版にない彼女のショーの数々によってオリジナルの再現のその先にある一段上のエンタメステージに昇華されている。

 つまり「原作ファンとしての興奮」と「新作2.5次元舞台の興奮」が矛盾せず両立していたのです。

 

 

 本公演が劇場を広く感じさせてくれた要因として、「闇」がキチンと取り込まれた画作りが意識されていたのは大きい筈。ざっとオリジナル三部作の流れを勝手な自分解釈で振り返ってみますーー文体変わりますーー……。

 

第一作目『我が人生最悪の時

 1993年撮影とのことで、どこまで当時の横浜黄金町の空気に忠実であったのかは知る由もないが、しかし明らかにフィクションめいた濱マイクの存在が「映画館:横浜日劇の二階に陣取っている」「その後公開される続編二作のタイトルが既にポスターとして貼られている」といったメタ構造からも、やはりこれは半分ファンタジーではあるのだろう。

 同時に、ありあまる映画史への憧憬が滲む。

 ハードボイルド、モノクロのノワール、日活の無国籍アクション。

 今観ても(林監督の作品は全部そうと言えばそうだが)『濱マイク』は日本映画の流れの中でどの時代に置いても浮いている独自の重力で存在している。当時の興行で世間的にはどのように認知されていたのか今ひとつ想像つかないのだが、ただいつの時代に置いてみても、そこで海外労働者たちが社会の末端、底辺へと疎外されている状況は普遍的なものだろう。楊海平はキャストの名前をそのまま用い、最後の手紙も彼が実際に書いていたものだという話を舞台版パンフで林監督が開陳している。

 濱マイクは言ってしまえば現実から少し浮遊した、それこそ2.5次元を生きる「映画の記憶」なのだ。だから青々しく義憤を叫び、無謀に突っ込んでいける。

 「エースのジョー」こと宍戸錠がそのままの名前で濱マイクの師匠として存在している身も蓋も無さが象徴的。

 

第二作目『遙かな時代の階段を

 二作目に於いても現実から浮遊して過去を愛でるような姿勢は継続し、遙かな時代の階段を上るのではなく、階段の上から振り返って確かめている。ただしそこには単なる「映画史」を越えて、横浜黄金町への、麻薬と売春で戦後を生き抜いてきたハマの持つ裏歴史への思慕もまた含まれている。

 「白い男」は「そう生きるしかなかった」暗部の象徴であり、乗り越えるべき父である彼を倒す為に踏みだそうとする濱マイクの背中を押すのは、唐突に登場する「ヨコハマメリー(実在した娼婦)」であり、もう行けと別れを告げている。

 一作目では映画史に憧れモノクロとなって同化してみせた『濱マイク』だが、二作目ではカラーとなり、そして過ぎ去った映画史に手を振る。

 これまた勘、及び映画評論家:蓮実重彦の「かまし」ありきなのだけど、『許されざる者』以降、映画人の間にはどこか「映画史は終わり、その後を生きている」という感覚があったんじゃないかと思える節がある。『許されざる者』がアメリカで公開された翌年に『濱マイク』は始まっている。

 映画史への郷愁を終え、その愛すべき父を殺し「新時代の映画」の幕を開けようとする意思が爽やかな余韻さえ残す。

 

第三作目『罠  THE TRAP

 ところが、その新時代である筈の90年代の映画は世紀末的な退廃とサイコ・サスペンス、ついでにトレンディドラマ(山口智子)で満ちていた。前作までに印象的だった佐野史郎杉本哲太が別の役で登場してかなり混乱する事含めて、前二作とは明らかにタッチが異なっている。

 その極めつけが、永瀬正敏一人二役。片や濱マイク。そして片や……?

 古き歴史への郷愁に手を振った後、いざ「新時代の映画」に同化してみようとするが、そこにあるのは不健康なエログロ趣味で溢れた現代。ついぞ新時代に同化できなかった、同化したくもなかった濱マイクは、真っ暗なトンネルの澱の中へと沈むように消えていく。白い純白の古くさい理想に、恥ずかしげもなく支えられながら。

 残るおまけシーンは「全てメタ」でしかない。無邪気な映画史の亡霊「濱マイク」は、とうとう現代映画の中に居場所を見つけられず、消えるのだ。

 

 ここから先、「映画」に居場所を失った濱マイクは、連ドラや漫画に活躍の場を移す。漫画版は未読だが、連ドラ版はオリジナルで助監督だった行定勲らをはじめ数々の映画監督、CM、MV監督が自身の個性をぶつけている。ただベースは松田優作探偵物語』あたりのテレビ映画的な質感だろうと思われ、もはやオリジナルにあった古き映画史への憧憬は薄れているように感じる*1

 何より『濱マイク』を経て永瀬正敏その人がインディーズ映画シーンのアイコンとして完成された後の時代の作品である為、どちらかというと『私立探偵・永瀬正敏』の趣きが強い。

 正直、自分は連ドラ版の濱マイクにあまり濱み()を感じていない。マイクはずっと『罠』のトンネルの闇の中に消えたままだ。

 中でも欠片も林海象とは映画趣味を同じくはしていなさそうな(偏見)青山真治版『カリスマ』といった第六話『名前のない森』は劇場用完全版もあり*2、そこではもはや「何の何?」といった感じでずいぶん遠いところに来てしまった濱マイクがぼう然としている(だから彼は森の中で「それ」を見てしまうのではないだろうか)。

 

 今年は青山真治の早逝が大変ショックで、何か運命も感じたので、池袋に降りてまずは劇場とは反対方向、青山の母校立教大学を散策して心の中で挨拶を済ませた後に濱ステを観劇しました。𝒉𝒂𝒓𝕞𝕠𝕖パーカーの不審者が大学うろついてゴメンね!

 

 ーーそんな風にして。

 居場所を探し続けていた、むしろ最初から居場所などない野良犬だった濱マイクが、ドラマの番宣の為に『名探偵コナン』にカメオ出演するくらい迷走していた濱マイクが、こうして堂々と虚構のノワールを引き連れて舞台上に展開している事に、言いしれぬ感慨を覚えていました。

 『罠』に於いてマイクは、そして永瀬正敏は二度もトンネルの闇の中に消えた訳ですが、その闇の淵から今、ようやく彼自身がこうしてステージに上ってきたのだということに、絶えず説得力が与えられる強度を保った舞台でした。

 舞台はどうしても観客もその虚構のリアリティラインに対してチューニングを合わせなくてはいけない、共犯関係を要求してくる媒体だと思うんですけど、アクションの迫力によるのか銃声の音響によるのか音楽の力によるのか、かなり早い段階でごく自然とこの闇の世界に無理なく耽溺させてくれる。メタ的な笑いも取るにもかかわらず、命の奪り合いが嘘ではなくなる渋みがちゃんと。

 オリジナルよりディティールのボリュームを増やしていった為に情報量が飽和して少し混乱してくるあたりも、まさにフィルム・ノワールの感触であり、南果歩はそうはなれなかったのに、王百蘭はハッキリとファム・ファタールとして舞台を支配していました。

 

 佐藤流司さん。「野良犬」に相応しいギラつきがキチンと備わっている。初演、視座的にめっちゃ中央ド真ん中だったので、主に濱兄妹と何度も目が合った気がします信じてください。濱マイクと、よりによって推しが演じるその妹と、ラストは二人と目が合ったまま幕が閉じるような錯覚を。

 小泉萌香が出演している、濱マイクの世界の完璧な再現、いや再生。それがどういう夢であれ俺の夢であることは間違いないだろう嘘みたいな出来事なのに実際は夢じゃないという現実に目が眩みます*3

 開幕前はドラマ版のエゴ・ラッピンかからないかなーと思っていたのですが、まさか「そっち」を*4、あんな堂々と歌ってくれるとは。もちろん永瀬正敏の培ってきたプロップスに敵うとまでは言いませんが、あそこで佐藤さんの新生濱マイクに心許していました。

 

 寺西拓人さん。ドラマ的な核であるハイピン役。バラエティ豊か、時に周囲が笑いに走る中でも、冒頭から一貫してハードボイルドを背負って軸となり続ける重力。今知ったのですがジャニーズなんですね! 『リクよろ』のお二人といい、舞台メインのジャニーズ俳優、だいぶ磨かれているのでは。

 

 矢部昌暉さん。星野くんですよ。オリジナルで演じるはナンチャンこと南原清隆。その役をイケメン俳優がっていくらなんでも無茶なんですけど、初演から全力で笑いに勤しむ力業でちゃんと新しい星野くん像を勝ち取っていて、「再現」ばかりが正解じゃないんだという、当たり前なのに巷で認知しきれてないルールを再確認できました。

 

 椎名鯛造さん。『はめステ』での安心感を覚えているので鯛造さんを再びお目にかかれる事も楽しみにしていました。前半なかなか出てこないのでハラハラしていると、後半見る間にノワール世界の奥行きを情緒で連れていってくれる。

 『はめステ』に続き「第四の男」としてシリアスを底支えする役。こういうポジションを演出家がつい任せたくなる人だという事、すごく納得です。他の舞台でもこの方を見てみたい。後もえぴにおやつばかりでなく野菜も摂るよう言ってください。

 

 小泉萌香さん。ちょっと待ってくれついこの間あなたの三時間ある舞台全14公演の千穐楽を見届けたばかりなのだが? いつこれだけの段取りを? となる、特に前半での手数の多さ。立ち位置移動の激しさ。『もえの~と』河内美里さんゲスト回で「稽古一週間もなかった」と言っていた気がするのですが気のせいだと思いたいです。

 オリジナル版に比べてやはり勝っているのが茜の強気な態度で、元から芯のあるキャラではありましたが(主に二作目)それでも少し古臭い造形ではある為、小泉さんの色でどんどん塗り替えていってくれるのがやはり星野くん同様の頼もしさを覚えました。何より男性陣と並んでも特に華奢ではないところが良かった。

 

 七木奏音さん。繰り返しますが舞台を支配していました。磨き上げられた体躯、ムキムキの腕の筋肉、而してしなやかな動き、そして圧倒的歌唱力に、チャイナドレスでの美ぼう。百蘭の女性像もまたともすると古色蒼然としているのですが、七木さんのパフォーマンスのバイタリティによってより未来を感じさせる力強さを獲得し、ただの郷愁に留まらないエネルギーを舞台の隅々にまで行き届かせてくれていました。

 役柄的にもしかしたら二作目の鰐淵晴子と一作目の南果歩を混ぜてみたのかも知れません。

 

 和興さん。茜に蹴られた後のリアクションで大爆笑。あそこで「あ、こういうのアリな舞台なんだ」と理解を。強面も道化も悠々と演じられているからこそ若手が暴れ回っても世界が平面化しませんでした。オリジナル版より愛嬌が加わって、怖くて悪いけど、「大人」がそこにいる安心感。

 

 佐久間祐人さん。いや、っていうかエースのジョーまで出てくるの? という衝撃。やっぱりこの舞台、二作目やるのでは?

 あくまで宍戸錠宍戸錠として出てくるから面白くまた意味あるキャラをもはや宍戸錠ではない人が演じるの本人も意味わからなかったと思うのですが、シリアスなシーンから間髪入れずに究極の楽屋オチのような登場で大爆笑をかっさらい、唐突すぎるキャラを観客に認めさせてしまったの、演出西田さんも佐久間さん(演出助手も兼任)も舞台の手練手管がハンパない。

 

 神野役の人。単なる悪役ではない、その人生の片鱗を一瞬だけ窺わせる「間」が見事だったのですが、同時に単なる悪役としてむしろ完璧なある「身体的事実」が判明する際の不気味さが最高で、ちゃんとこの世界の奥底にある抜け出せない「闇」を感じさせてくれました。

 

 なんていうか、大人たち一人一人の存在感がまたキチンと機能している作品。アンサンブルの人も皆印象的だし、ともかくパーツのすべてがクッキリとした輪郭を持っていて確信犯でそこに収まっているような、2.5次元舞台の本気を初めて知ったような気さえしました。

 

 そもそも、マイク・ハマーフィルム・ノワールも日活活劇もエースのジョーも横浜日劇も黄金町も何も知らない頃に見て大好きだった、というよりは、好きか嫌いかさえよくわからずにやけに『濱マイク』に惹かれていた子供の頃の自分を思えば、細部の意味は判らなくても十分に楽しく、浸れる舞台なのは間違いなく。

 

 本当はもっと早く記事書いて少しでも宣伝になればと思ったのに大阪公演当日になってしまった不明を恥じつつ、引き続き応援しています。

 

 過去の郷愁と戯れ(一作目)、そして手を振る(二作目)オリジナル版の流れからすると、二作目もあって初めて成立する舞台かも知れないと思いました。

 そして願わくば三作目で、もはや『罠』すら原作ではない、「今の舞台が用意できるオリジナルの濱マイク」をお見舞いできれば、それこそ真に『濱マイク』を、トンネルの闇の澱から掬い上げてやることが出来るのではないかと、そんな勝手な希望も込めて。

 

 

*1:『スペース・ダンディ』の先駆けのような自由度

*2:野に放たれる狂人役として樋口真嗣監督が出演している

*3:濱ステ観劇して帰宅したその夜より、おそらくピークを越えた緊張性頭痛からくる体調不良が続いており、本当に目が眩んでいる。なんだろ、舞台効果の数々が刺激強すぎたのかな

*4:永瀬作詞、THE MODS森山達也作曲、『我が人生最悪の時』主題歌『キネマの屋根裏』