スタッフ
【監督・脚本】マーティン・マクドナー
【撮影】ベン・デイヴィス
【プロダクション・デザイン】マーク・ティルデスリー
【衣装デザイン】イマー・ニー・ヴァルドウニグ
【編集】マッケル・E・G・ニルソン
【音楽】カーター・バーウェル
キャスト
【パードリック・スーラウォーン】コリン・ファレル 【コルム・ドハティ】ブレンダン・グリーソン 【シボーン・スーラウォーン】ケリー・コンドン 【ドミニク・キアニー】バリー・コーガン 【ピーダー・キアニー】ゲイリー・ランドン 【ジョンジョ】パット・ショート
【あらすじ】
1923年、アイルランドの小さな孤島イニシェリン島。住民全員が顔見知りのこの島で暮らすパードリックは、長年の友人コルムから絶縁を言い渡されてしまう。理由もわからないまま、妹や風変わりな隣人の力を借りて事態を解決しようとするが、コルムは頑なに彼を拒絶。ついには、これ以上関わろうとするなら自分の指を切り落とすと宣言する。
アニメ監督であるヨン・サンホがどんなに韓国映画っぽい実写エンタメに手を出してもどこかメイン・ストリームと離れた凸凹感があるように、舞台畑の人であるマーティン・マクドナーの映画もどこかぎこちなく映像に接近しようと悪戦苦闘している感触があり、洗練(風)が蔓延る時代に、この映画への畏敬に満ちた手探りの組み立て感は嫌いになれない。
台詞が巧くて言葉が強すぎるのかも知れない。
舞台時代に書き損じ自らお蔵入りにした戯曲『イニシィア島のバンシー』と同名の原題が当初与えられていた本作。いつも以上に演劇的な映画となっていて、身も蓋もなく言ってしまえば「良く出来た戯曲をオールロケで演じてみました」といった、「映画」よりは「映像作品」と言われた方がしっくりくる。ブレンダン・グリーソンの肝の据わり様は流石、ストックキャラクターを越えた固有の存在感をそこに眼前させて映画/演劇の線引きを無効化するが、兄妹の会話シーンはいかにも演劇の間合いで、何度か「舞台だ、これー」と引き戻されてしまった。
その上で、良く出来た映像作品だと思う。
舞台セットとしてのスーラウォーン家とジョンジョのパブの陰影、その中間と思われる断崖の上の歩道の風光の、仮初めの抜けの良さ。抜け出せない島の魅力と行き詰まりが耐えず視覚的に意識させられる。それらの景色はただ視野を狭める訳ではないので、一概にこの島が良いとも悪いとも言えない*1。
そして本作の主要ストーリーを成す、親友コルムから突然言い渡される絶縁宣言。最初に知った時の印象から*2、マーティン・マクドナーだし「その前提の不条理に理由はなく、ただあるものとして始まる」演劇に於けるクリシェの話法なのかと思いきや、このコルムがパードリックに見切りをつける理由が、あまりに身に覚えがあり過ぎてドキッとした。
不条理じゃない。全然起こりうる。
それは自分の場合は、家族に対して抱いたイラ立ちだった。非常に後ろめたさも覚える感情だったのだが、こうして世界的な話題作がその感情を「ある」として拾ってくれたことでとても救われたような気がした。
しかし同時に私は足踏みして置いていかれる側であるパードリックでもあり、二人の抱える停滞感への憂鬱は表裏一体のもの、二人は決して離れられないのだろうという奇妙な納得感もあった。内戦にも内面にも、メタファーであれば等しく敷衍しうる。
神楽ひかりに「探しなさいよ、次の舞台を」と言われても、次の舞台が始まってくれない男の物語。
イニシェリン島はほぼ閉塞的な環境に身を置く一人の人間の内面のジオラマであり、もし二人のどちらかが殺される日があるとすれば、それは生存者がこの島を出る時に違いない。
田舎になんて住んでいなくても、私はイニシェリン島に生きている。今はまだ。
ジオラマ感を強くするのはコントロールされてしまった動物達の捉え方で、死を予言するアイルランドの妖精バンシー(老婆)の捉え方などからベルイマンへの憧れ(?)、演劇から「映画」への接近願望もふんだんに覗くが、あの犬がハサミを加えて引いていく画のあまりに予定調和な動態への感性の鈍さが本作を「映画」から若干遠ざけているのだとは思う。
それでも、演劇的には巧いのかも知れないが、という点でいくと例えば三浦大輔の映画の途方もない画面の狭さを思えば、ここまで演劇的お膳立ての揃った作品でひたすら映像の抜けを意識したマクドナーの方がずっと親しみを覚える。
映画的に弱いことと、映画としての愛嬌はまた異なるのだと思った。要所要所では笑いが起こるのも良かった。
にしても、本作最大の魅力はコリン・ファレルの再発見に尽きる。
見慣れた人の顔の造形を不意にじろじろ眺めて「あ、こんな顔してたんだ」となる時に近い、コリン・ファレルからコリン・ファレル性をはぎ取って、ただ困り眉のおじさんをそこに発見する侘しさと可笑しさ*3。
『セブン・サイコパス』をわざわざ観に行って死ぬほど退屈な思いをした経験があるので、このコリン・ファレルの再発見ひとつでマーティン・マクドナーは、あれからまた一つ舞台ではなく「映画」に接近出来たと思えた。
そしてこの男たち/一人の男の鬱屈は、映画に接近しようと願いながらも「舞台」から抜け出せないマクドナーの自己批評かも知れないとこじつけてみる。