スタッフ
【監督】スティーブン・スピルバーグ
【音楽】ジョン・ウィリアムズ
【衣装】マーク・ブリッジス
【美術】リック・カーター
【編集】マイケル・カーン、サラ・プロシャー
【撮影】ヤヌス・カミンスキー
キャスト
【サミー・フェイブルマン】ガブリエル・ラベル
【ミッツィ・フェイブルマン】ミシェル・ウィリアムズ
【バート・フェイブルマン】ポール・ダノ
【ベニー】セス・ローゲン
【ローガン】サム・レヒナー 【チャド】オークス・フェグリー 【モニカ】クロエ・イースト 【クローディア】イザベル・クスマン 【ティナ】ロビン・バートレット 【レジ-・フェイブルマン】ジュリア・バターズ 【ナタリー・フェイブルマン】キーリー・カルステン 【ハダサー・フェイブルマン】ジーニー・バーリン
【ボリス伯父さん】ジャド・ハーシュ
初めて映画館を訪れて以来、映画に夢中になったサミー・フェイブルマン少年は、8ミリカメラを手に家族の休暇や旅行の記録係となり、妹や友人たちが出演する作品を制作する。
そんなサミーを芸術家の母は応援するが、科学者の父は不真面目な趣味だと考えていた。
そんな中、一家は西部へと引っ越し、そこでの様々な出来事がサミーの未来を変えていく--。
(公式サイトより)
他者から見たらなんでもないことでも、人は強い恐怖の対象とする時がある。
意識による制御が効かない脳のこうした作用は、どんな意図でデザインされたのだろうか。
生存本能とは最早無関係なものに対してまで恐怖し続ける宿痾を背負う必要が、何処にあるというのだろう。
ーーアニメ『神霊狩/GHOST HOUND』次回予告
『宇宙戦争』を映画館で観た時、とにかく怖かったのはダコタ・ファニングのオーバーアクトである。
映画が破綻するんじゃないか。もしかしてスピルバーグって芝居つけるの下手なんじゃないか。
そういう、大前提が壊れそうなハラハラ感。
思えばそれは飛びだしてくるようなダコタの大きな目玉と、不意に叫ぶ彼女へと寄るカメラがより強調してくる不安であり、そういう狙いでもあった訳だが。
本作冒頭、家族と映画『地上最大のショウ』を観に行き、サミー少年は「列車のクラッシュ」シーンに引き込まれる。そのインパクトを再現することに執心する彼は、自宅のSL模型を走らせると前のめりで迫る列車に顔を近づけていく。
彼のこの映像インパクトへのフェティッシュは映画そのものを支配し、最後にようやく映画をより理知的に統御する方法を少しだけ学んで終わる。
この「最後」を撮っている「彼」が、いつの時代、いつの年齢の彼なのかは知らない。
みんなスピルバーグ+カミンスキーで慣れてるから少し甘いけど、落ち着いた郷愁を誘うには明らかにカメラは落ち着きがないし、何よりミシェルのオーバーアクトは過ぎる。『宇宙戦争』のダコタかと思った。
少なくともミシェル・ウィリアムズはもっと表情の静謐にも情念を滾らせることが出来る人だし、ポール・ダノももっと佇まいの中に悲哀を落とし込める人だ。
そこまで彼らのベストアクトは引き出せておらず、スピルバーグは今までもずっとそうだった(役者にとってのベストではない)ような気がしてきた。
あの迫り来る列車のように顔面の芝居が出張ってくるミシェルには迫り過ぎ、ダノには離れ過ぎで、二人の芝居の気配のようなものは捉えられていない、というより芝居の気配など「信じていない」のだろう。
今までもずっとうっすら感じていたスピルバーグの芝居への信頼の無さ、即物的「画面」への過剰な信頼が、見世物的要素をなくした事で全面的に展開している映画である。
ホームパーティーも映画上映会も、みんな大好きハイスクールさえ、ここでは剥き出しの人物が危うくそこにいる。特に学校を「ジョックスというジョーズから逃げられるか否か」のスリラー空間としか捉えていないあたり、普段あまり学校を映すことがないが改めて挑んだことで、よりスピルバーグの作家的個性、王道のようでピーキーなスタイルが浮き彫りとなっている。
少年時代の恐怖の記憶が「映画」「母」「不良」と連なっていき、それらは大仰に突然迫りくるが、サミーはカメラを通じてそれらとの距離を少しずつ学んでいく。
映画を通じて見たくもないものを見たと思えば、映画を通じて見たものがすべてではないと学ぶ。
だから、あるのはただ「画面」だけだ。
最後にようやくそうと悟ったサミーは、今後もきっと役者の芝居の気配などには興味を持たず強気なフィルムを回していくのだろう。
実は本作の予備知識を「デビッド・リンチがジョン・フォードに扮するスピルバーグの半自伝」としか認識せず、例によって予告編すら観ていなかった為、スピルバーグが撮影所に入って以降の話もやってくれるものと思っていたから、「少年時代長いなー」と思ってたら終わってしまった事をここに白状します。
冒頭から『ツイスター』や『E.T』、他にも忘れてしまったけどもう一本「そのままのショット」がたしか出て来て、恐らくこうしたセルフオマージュが沢山あったのではないかと思う。そんな事して成立するのはこの人しかいないし、同時に『レディ・プレイヤー・ワン』的な記憶の再利用で映画を構成するスタイル自体が、情感と距離を置き映画を「画面」として突き放す無機質さもキープする。
最近読んでるテッド・チャンの小説で、記憶のフィードバック・ループによって人は過去を美化したり、あるいは痛みを鎮めていくことが出来るとあった。だが、何もかもを記録出来るようになってしまえば、その距離感は絶えず一定で、ただ「現実」だけがそこにある、新しい価値観の人類が誕生するだろうと。
本作は記録とは異なる、落ち着いた画面との距離感によってフィードバック・ループが生み出す甘美さに抗い奇妙な違和感の影を落とし続けているのだが、同時にそれほどまでに彼は「そのこと」に傷ついていたのかという生々しさが如実に表れてもいる。
私たちが永遠に幼い頃に感じた恐怖から逃れられないのだとしたら、スピルバーグは世界を代表する「映画少年」であり続けるのだろう。