風が生まれない場所 - 『君たちはどう生きるか』感想

 スタッフ

【原作・脚本・監督】宮崎駿

作画監督本田雄 【美術監督武重洋二 【ハーモニー】高屋法子

【助監督】片山一良 【色彩設計】沼畑富美子・高栁加奈子

【音楽】久石譲 【撮影】奥井敦 【編集】瀬山武司

 

 キャスト

【眞人】山時聡真 【青サギ】菅田将暉 

【ヒサコ/ヒミ】あいみょん 【キリコ】柴咲コウ 【夏子】木村佳乃

【勝一】木村拓哉

【あいこ】大竹しのぶ【いずみ】竹下景子【うたこ】風吹ジュン【えりこ】阿川佐和子

【ワラワラ】滝沢カレン 【インコ大王】國村隼 【老ペリカン小林薫

【大伯父】火野正平

 

 再見して来ました。

 昨年の初見時には酷評を。

filmarks.com

 

 この時抱いた失望に一切ウソはなく、死ぬほど高かった駿へのハードルが一般的な映画の地平に落ちたところで再見しての感想。

 初見時大スクリーンを眺めて感じた「駿、枯れたのか。。。」という寂寥感が、本作独特の居心地の良さに繋がっていて、例えば「こんなにつまらないのウソだろう」と思って繰り返し足を運んだシン・エヴァがつまらないままだったのとは訳が違って、「こういうアート映画」としての完成度は意外と整えられていた。

 一番はスクリーンに見合う世界が広がっていて、腐っても絵のセンスは的確だったこと。「下の世界」と同じくらい「屋敷」の中にも空間がある。それはCGを用いただろう廊下の直進より、いくつかある眞人が青サギの迫る窓枠を振り返るシーンの方がより厳密な、そこにその窓を直視せざるを得ないシンプルなショットの魅惑がしれっと貼りついている。

 それは前提として。

 

 やはり老齢の為に全体の細部に手が行き届かなくなった(本田雄や片山一良に預けた)結果なのか、以前なら見せただろう「アクションによって理屈を超えてシーンが展開する」飛躍、またそれを行う手つきの「タイミング」の快楽が見受けられない点に顕著で、それを自分で理解しているかのようにシナリオ上も「行くかに見えて行かない」が繰り返される。

 今までだったらアバン越えたら真っ先に「下の世界」だ。だが眞人はなかなか不思議のトンネルをくぐろうとしない。

 「何か起こるかも知れない」という予感と「もはや何もないかも知れない」という胸騒ぎと、今思えば初見時も(シン・エヴァも第三村が出てくるまでの冒頭だけはそうだったように)この先に何があるのか/ないのかとハラハラしたこの時間が一番貴重な映画体験だった。

 それでも何かあると信じたい。監督と観客が映画に向ける感性を一つにするような、そういう映画になっている。その願いは無残にも裏切られるのだが、結果に至る過程に本作が情報秘匿したまま公開した唯一無二の価値があった。

 

 青サギは文字通り詐欺師として、そんな淡い期待、ファンタジーという幻想にすがる心に取り入ってくる。

 美しいかに見えたその正体は、しかし実際は酷く醜く。

 青サギとの小さなバトルの繰り返し。何かが起こりそうで起こらない、洞のような時間が映画を支配し、それは「下の世界」に落ちてからいよいよその空虚さ、身もふたもない野蛮さをむき出しにして殺伐とイマジネーションを消費する。

 この虚しさは、圧倒的知識量から生じるディティールでその世界の広がりを信じさせてくれた過去の諸作、または果てしないあの世の片隅にあるような湯屋と違って、どこまでいっても大伯父の積み上げた積木の世界だから。

 個人的に人生のバイブルとしている、もう長年読んでいないが一応文庫本はいつでも読める位置に置いてある、渋谷陽一独特のクドさで宮崎駿に食い下がるインタビュー本『風の帰る場所』。本作を見る上での補助線となるだろう発言やインスパイア元への公言で満ちているので未読の方いたら是非読んでほしいけれど、映画にさしたる興味があるとは思えない渋谷でもついタイトルに使用するくらい宮崎アニメを象ってきた「風」、その風の吹く場所へのイマジネーションが本作は働かないのだ。

 きっと狭い空洞をどこまでも拡大させた世界なのだろうと観客は自然と思わされ、無風の真空状態を旅するような空疎な心もとなさに閉じ込められる。

 果てしない空の上にもただ地上があるだけだろう。そこへ飛び立ち甘美なリーンカーネーションを成そうとするワラワラは、呆気なくペリカンに貪られる。

 

 ではこの映画は初めからこうも空疎な無力感に囚われていたのか。

 いや冒頭、火災シーンの迫力は誰もがねじ伏せられるものだった筈。

 大平晋也パートだからずば抜けて良いのだ、と初見時は思考停止し、そのアンバランスに落胆もしたが、再見時はここで母と死別してしまった眞人の世界がそこから先、映画全体を覆う空虚な心の洞/喪失感に囚われる流れは至極当たり前の構成として受け取れた。

 今までは「風」を、「体感時間」を捕まえることで、そこにシネフィルが持ち前の映画知識だけでは介入できない宮崎アニメ流の「活劇」はグルーヴをキープしてきた。それはそこに生きた世界があるから成立したことで、観客は宮崎アニメの世界に浸ると自分が身体を使い、風を受けている感覚を無意識に反応させてそこに濃い体感を過ごすことが出来たのだ。

 だけど本作に於いて眞人の心はすでに一度死んでいるから。

 ここにあるのは生きた風も時間もない、空疎な凪。真空世界。

 今までポジティブに描かれてきたイマジネーションの、ネガへの反転。

 拡がるのは世界ではなく、どこまでも伽藍洞な自分の心。

 多彩な妖怪も神様も消え、ただ面白味のないデザインの鳥人間たちが殺伐と命を刈っている。

 最近『王と鳥』を見返したのだけど、きっと似てるだろうなーと思ってたあの作品ともまた違った空虚だったのは見当が外れた。ポール・グリモ―は自分のイマジネーションを信じているから。

 

 この空虚の果てで、無力かに思えたイマジネーションの残滓はせめての影響力を現実に対して行使し、崩壊して役目を終える。

 アレンジを捨て、宮崎駿が過去発言していた様々な作品の要素がほぼ隠しもせずむき出しで徘徊している「下の世界」だが、それはつまり創造的時間を終えたあるアーティスト(彼のモデルは高畑勲ではなく宮崎駿だといいたいが、当然どちらでもなく「大伯父」は「大伯父」である)が世界を創り切った後に、まだ出がらしの元ネタが吐き残された体内残留物として転がっているに過ぎない。

 ガラクタだけ寂しく転がっている世界。寿命を終えたファンタジー

 でも、そんな洞の中からも持ち帰ったものがある。

 

 本作の空虚が自明のコンセプトの要請に従ったものだとしたら、まだ続くものはあるだろう。

 (ラストシーンでは「風が吹く」べきではないかと思うのだが、ポケットをゴソゴソするにとどまる。風は生じない。それではやはりファンタジーに過ぎないというように)

 

 余談だけど本作にアニメの魅力を感じる点があるとして、キャスティングだと思った。キムタクは、菅田将暉は、あいみょん(俳優業するとして)は、柴咲コウはetc……「こう」使うのが本当は最適なんじゃないかという奇妙な確信。

 自分の肉体に縛られてしまっているだけで、その存在が演じるに一番見合ったキャラクターを活き活き演じていると思う。

 自分がずっとタレント俳優に否定的になれない理由を不意に見つけた気がした。

 自分の肉体を離れた役者本人の在り様が光っていた。

 

 以下おまけ。

 

 ところで『プロフェッショナルの流儀』の宮崎駿回をフルにではないにしろ視聴して、つい自分も「荒川(密着ディレクター)はさぁ」と親し気に語りたくなるが、荒川はどこまでも目の前にいる人の発言にしか興味がないらしく、それを切り取って過去のジブリアニメとサンプリングして新たな物語を作り上げてるだけで、『君生き』という映画に、アニメに、一ミリも向き合ってないことに吃驚した。

 二十年間ジブリに密着するより前に、またはその最中に、もう少し創作について磨いてきた鑑賞眼はなかったのだろうか。

 あなた達がアニメに命を注いだように自分はドキュメンタリーに徹するという意志があればまだよいのだが、ネトフリに転がってるアメリカの量産型エンタメドキュメンタリー形式の軽薄さは、宮崎駿高畑勲が向き合っている「映画」や「アニメーション」へのまなざしも重みも欠片も共有していない。

 確かに貴重な発言や映像は沢山見れてお得だったが、「男男の感情が~」とかで気持ちよく消費してわかったフリにさせるのはあまりに、作品を矮小化していないだろうかと強く疑問を抱きました。

 それでも痩せてかえって矍鑠とした宮崎駿が車を運転したり散歩する姿、まだまだ引退には早いなと信じさせてくれたのは見て良かった。

 

李琴峰『彼岸花が咲く島』

 

 

「リー、ニライカナイより来したに非ずマー?」

 

 海岸に彼岸花が咲き乱れるその島に、かすかな記憶だけを残して少女が漂着する。

 やがて宇実(ウミ)と名付けられる彼女を見つけたのは、褐色の元気娘・游娜(ユナ)。

 宇実は「ひのもとことば」を、游娜をはじめとするこの〈島〉の人たちは「二ホン語」を話す。ひらがなで成立するようないくつかの言葉は共通して会話できるが、それ以外の言葉の法則性を宇実は一から覚える必要があった。

 ところで、この〈島〉は代々女性が継承する「ノロ」と呼ばれる祈祷師たちが仕切っており、ノロに選出されるために少女たちは「女語(じょご)」と呼ばれる言語の勉強をして習得する必要がった。

 この「女語」こそは、地の文で用いられる、そして私たち読者がよく知る、「日本語」そのものである。

 果たして、宇実と游娜は「ノロ」を目指すのか。男でありながら密かに「女語」を習得、ノロになりたいと願う男友達・拓慈(タツ)の想いに応えられるのか。

 そしてこの〈島〉の秘密とはーー?

 

 明らかに琉球の文化を持つ島国で存在する奇怪なルール、何より自明のものとしていた「日本語」が解体されて登場する混乱が好奇心をそそり、芥川賞に抱いていた闇雲に言葉をセンスで混ぜっ返すイメージとは異なる、より俯瞰的な視野から言葉を捉え直す感覚が大いに脳を刺激してくれる。最近エスペラントの本を読んだせいもあると思う。

 

 沖縄風情の宿るSF(ケン・リュウの短編集にありそうな)という涼風に、咲き乱れる彼岸花のイメージが不吉な陰を鋭く大きく差し続ける塩梅も独特。

 なにより、「〇〇ラ!」を繰り返す褐色美少女との百合という、非常に現代的な「萌え」の側面の純度が高い。ランジュかな? ナターリアかな?

 百合小説として宙ぶらりんに終わってる気もするけど、前提となるそのカテゴライズが何か既存の常識に縛られてるんじゃないか?とも穏やかに突き付けられる。

 

 読み終えて、ではこの小説は誰がいつ書いているんだろうと想像する余韻が悪くない。

 

2023年印象に残った映画73本

 鑑賞環境問わず2023年見た映画から印象的な作品をPickup。

 ブランクありましたがそこそこ映画鑑賞戻ってきました。以前のように観たい作品なんでもは見れず、むしろ見落としの方が圧倒的に多くなってきましたが、それだけに偶々出会えた映画一本一本の記憶を大事にしていきたい。

 

 THE FIRST SLAM DUNK井上雄彦、2022年/日本)

 全体としては手探りの映画制作は伝わってくるなんとも言えない構成なのだけど、その分も試合シーンの目が吸い込まれていく躍動が引き立つ。抗えなかった。

 

 ミンナのウタ(清水崇、2023年/日本)

 視点変更で「アイドルが宿泊しているホテル」が立体化してホラー装置を組み立てていく様、ああいう流れに興奮したくて映画見てるんだ。

 普通にめちゃくちゃ怖いシーンが一つ用意出来ていたし、上手くいってるかどうかはさておきラストのあのシークエンスを効果的に用いようとした試みを見れただけで嬉しい。

 

 リトル・マーメイド(ロブ・マーシャル、2023年/アメリカ)

 逆境に対して「だからこの映画作ったんだよ」という回答になる確信犯のアレンジと、大胆過ぎるフィナーレ。前年初めて見たオリジナル版があまり納得いかない話だったこともありアリ寄りのアリ。

 映画 プリキュアオールスターズF(田中裕太、2023年/日本)

 みんなの記憶のイメージが乱反射するクライマックス、具体的に建物の側面に照射される過去のスクラップをスクリーン越しに見上げている時、自分の中に存在しない「プリキュアを応援していた過去」が遡って誕生していた。

 歴代プリキュア揃えたその上で選択肢は全て新キャラであるヴィランが誰にも流されず自分で選び自分で決めていくのも、お祭り映画でありながら倫理的。

 

 グランツーリスモ(ニール・ブロムガンプ、2023年/アメリカ、日本)

 早送りしてるのかってくらい速度を増す編集と展開、そして鑑賞したスクリーンの長方形かつ一番後ろの席という環境すべてがアーケードゲームをプレイしているようで、入れ子構造の中で味わえた忘れ難い体験。

 ニール・プロムガンプが肩の力抜いてこういう映画を撮ったことも嬉しい。

 

 ジョン・ウィック:コンセクエンス(チャド・スタエルスキ、2023年/アメリカ)

 戦闘に参加せず蕎麦だかラーメンだかをすすり、徐ろに戦闘に加わるとまず音の反響で空間を把握してから敵の位置をピンポイントで襲撃するドニー・イェン

 前作の闇雲な長さを経て、実は見せ場の緩急やバリエーションを計算して配置してあるので、明瞭な構成の中にいる間は長尺も気にならないんだと気づいたし、終盤でちゃんと答え合わせ出来る展開と画を持ってきてくれてたので胸がすいた。

 

 北極百貨店のコンシェルジュさん(板津匡覧、2023年/日本)

 コンセプトアートそのものが世界すべてになっていて、その世界すべてがテーマにもなっている。そういうシンプルな映画をノイズ多くなりがちな邦画から生み出してくれてありがとう。

 

 鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎(古賀豪、2023年/日本)

 ノワールと形容されて後からじわじわしっくりきた。

 『ゴジラ-1.0』が天然なのかわざとなのか目を伏せ、『君たちはどう生きるか』がわざとらしく「目を伏せてますよ」と囁いてくるポイントへと鬼太郎なら踏み込めるのだ。もっと踏み込んでくれてもよかった。

 

 イニシェリン島の精霊

 (マーティン・マクドナーアメリカ・イギリス・アイルランド/2022年)

 見ている間はどうにも舞台を見ているようで居心地悪かったけれど、見終わって時を置くごとに内容が嫌になるくらい刺さって、そしてイニシェリン島での日々が自分の中で実在していく。それは映画のもたらす閉塞感を共感させながら、心の置き処を映画の向こう側に一つ与えてくれる開放的な効果でもある。

 

 長ぐつをはいたネコと9つの命(ジョエル・クロフォード、2022年/アメリカ)

 とても笑えない境遇からくる精神的混乱を痛ましいビジュアルで見せる「ワンコ」をコメディリリーフにしたり(マジでギリギリだから)、完全なる『死』の象徴であるウルフの存在と彼に見せるプスの怯えであったり、悪役ホーナーの今時珍しいほどの純粋悪っぷりであったり、すべてが加減なしのフルスロットルなのに破綻せず面白いのは、「願い星」が謂わば聖杯戦争の聖杯の役目を担い、等しく群像劇としてそれを追い求める権利を持っているから、或いは等しく持っていないから。

 

 AIR/エア(ベン・アフレック、2023年/日本)

 対立し説き伏せるその繰り返しで誰もが愛おしくなっていく。そして全員集合のプレゼンタイムへ。無駄な会話が一つとしてなく、どのダイアローグも活き活きとその人の生き様を互いに伝えあう。テーマだけじゃなく、個人の権利について映画を撮るということを、個人のかけがえのなさによって実践してみせている。

 

 アルマゲドンタイム ある日々の肖像(ジェームズ・グレイ、2022年/アメリカ)

 冷徹という訳でもなく、しかしここまで郷愁を容赦なく描いた映画があっただろうか。子供のやましさ、親の恐ろしさ、つい同時期公開の『フェイブルマンズ』と比較してしまい、こちらの方が圧倒的に好きなフィルムだった。

 

 雄獅少年/ライオン少年(ソン・ハイペン、中国/2021年)

 この都会の労働者の朝の光景を皮膚で感じることが出来て、その最終盤へ飛躍の為に前半のベタなドタバタもあったのだと思うと、邦画が度々失敗しているチャウ・シンチーイズムの継承に成功している。

 

 インディ・ジョーンズと運命のダイヤル

 (ジェームズ・マンゴールド、2023年/アメリカ)

 飛行場で既に走り出した飛行機を一度画面から外した後、人物のアクションをつないでいくとちょうど観客の体感時間でそのくらい離れている距離にやはりちゃんと飛行機が走っている。こういう当たり前の良さで満ちていた。

 もちろんマンゴールド作品にしては凸凹した出来だけれど、そこも含めて自分の中にある『インディ・ジョーンズ』のイメージ通り。

 

 RRR(S・S・ラージャマウリ、2022年/インド)

 劇場を後にする観客の熱気が忘れ難い。

 長尺が当たり前のインド映画にして要所要所の飽きさせないギミックが頼もしく、古典的なドラマトゥルギーの強さで主役二人に注目していると、後半に来てまるでバラバラの世界に生きてると思われたあるキャラとシータが遭遇した時に「あ、会った!」という原初の驚きが生じた。人物と人物が不意に会うだけでこんなに面白い、物語の力。

 

 アリスとテレスのまぼろし工場(岡田麿里、2023年/日本)

 先行試写版で見た、エネルギッシュな混沌に振り回されて最後に「あの薄暗い場所にみんないるんだよ」と指された時の、奇妙な安心感。完成版だとラストの「あそこ」に陽が差して少し意味合いが変わって見えたのだけど、「エネルギッシュに後ろを向く」というアンビバレンツは言葉にできない映像作品の醍醐味。

 

 ケネス・ブラナー版『名探偵ポアロ』シリーズ

 ずっと内心小馬鹿にしていたケネス・ブラナーの『ベルファスト』が思いもよらず刺さったので、ガードを解いて観賞。

 ハードルも何もない状態だったからやたら心地よかった。世界中の観客が勝手知ったる探偵物フォーマットを逆手に、まるで世界の集合無意識がそこに居合わせているような、亡霊たちの晩餐会を見ているような気になるシリーズ。

 

 屋根裏のラジャー(百瀬義行、2023年/日本)

 幼少期の麻疹で見せるのかと思いきや視点が移行した際のワクワク感。以降も劇の磁場が持続し蛇行する展開に乗せられる。ベタな筈の見える/見えないの差異がもたらす実在のスリルも安易な子供の成長譚には乗らず。

 自分が抱えてたイマジナリーに手を振った。

 

 窓ぎわのトットちゃん(八鍬新之介、2023年/日本)

 『鬼太郎誕生』の更に突っ込めなかったところへ。

 多動気味なトットちゃんの危うさも序盤でめいっぱい体感させたまま、彼女に居場所が生まれる過程に温かくなり、そうして視点を狭めていると国家が最悪の道へ突き進めているという視点のミクロからマクロへのギャップが恐ろしい。

 

 対峙(フラン・クランツ、2021年/アメリカ)

 映画のフレームは、どんな表情も撮り漏らすまいと適切なカットを求めて4人の誰かの表情を捉えるが、その表情は次の瞬間にはまた心理の迷宮に迷い込み、そして相手の心理を読み解こうとして相貌を変えていく。

 分断と調和が一言ごとに変化して、私たちは日々片時も休まることなく他者の情報を受け取っている。

 

 あしたの少女(チョン・ジュリ、2022年/韓国)

 贅肉のない告発映画で、この映画の告発により韓国社会に変化を強要した点も凄い。

 ただし大事なのは「告発に従事する構成」ではあっても「映画は告発に従事していない」こと。ストイックに、しかし感傷は省いて演出される時間にはただ純粋に「描写」のみがあり、だからこそ彼女たちに共感し、その余白に私達の社会が抱えるシステムの歪みが見えてくる。

 その歪みの根源へと一歩一歩辿り、何を見て、何を訴え、何を変えればいいのかと提示していく。ただしやはりその「流れ」に従事する訳ではなく、少女も刑事も1シーン1シーンただ自分の時間を生きて、あくまで「結果」この構成の告発に繋がっているのだ。

 

 トリとロキタ

 (ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ、2022年/ベルギー、フランス)

 どんな切実な社会問題も目に沁み入るサスペンスの連鎖で(スマホSIMカードだけでこんなにハラハラする)、スリルと共に刻むダルデンヌ兄弟が、今回途中からスリルの停滞も描く。そこで溜めてからの脱出劇。どんなハリウッドスターの任務より、移民の子供たちが今日を生き抜くためのクライム・サスペンスは遥かに手を汗握り、そして。

 

 オオカミの家(クリストバル・レオン&ホアキン・コシーニャ、2018年/チリ)

 2023年一番最悪の体調で観た。そしてそれはそう間違いではなかった。

 

 はなればなれに(ジャン=リュック・ゴダール、1964年/フランス)

 ずっと気になってた映画の一本やっと、それも渋谷の映画館で観れた。

 『エクソシスト3』も既に観れたし、後は待ってろ『ラルジャン』『ハズバンズ』。

 メイキングでマジソンダンスを見守るパリの人々が時代の空気を伝えて良い。

 

 探偵マーロウ

 (ニール・ジョーダン、2023年/アメリカ・フランス・アイルランド・スペイン)

 スペインロケをハリウッド・バビロンに見立てたセッティングがもたらす、過去と現在が二重写しになったような似非ノワール空間。

 郷愁に手を振るような終幕含めて抜けの良さがしっくり来し、思えば『ゲゲゲの謎』ノワールたしかに。

 

 ファースト・カウ(ケリー・ライカート、2020年/アメリカ)

 ドーナツ美味そう。真の暗闇。荒ら屋は『雨月物語』。男たちは飢えて癒され、ここで一番飢えたモブの顔を覚えておくと良い。何かしでかしてからの事後の猶予に人生の本質を見るケリー・ライカートだけれど、ここでは「しでかしの最中」がひたすら豊穣に、可能な限り引き延ばされる。

 

 青春ブタ野郎はおでかけシスターの夢を見ない/ランドセルガールの夢の見ない

 (増井壮一、2023年/日本)

 オタク向け美少女コンテンツがいたずらに弄ってきたことや目を伏せてきたことに丁寧に向き合っていく二部作。『おでかけシスター』が緊張して足を踏み込んだ校舎の静謐、『ランドセルガール』の徐々に増していく背景情報量が語る世界との乖離は『トットちゃん』と同じくミクロとマクロのギャップを描き出し、胸にくる。

 

 マイ・エレメント(ピーター・ソーン、2023年/アメリカ)

 スクリューボールコメディの復権、と同時にアメリカを移民たちの巨大な漂流の場とも捉えた全体像も余韻を良くする。

 

 劇場版 乙女ゲームの破滅フラグしかない悪役令嬢に転生してしまった……

 (井上圭介、2023年/日本)

 久々にシネスコの画角いいなぁと画面を堪能できた。トリミングの余地ある左右がそれでも開いてる良さもさることながら、普通にシネスコ使い上手い画が頻発。話はぎこちない。

 

 キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン

 (マーティン・スコセッシ、2023年/アメリカ)

 アトロク試写会で観賞時、最前を引いてしまったので四時間近く「全体を把握しきれない」仰角でスクリーンを眺めるという体験をして、それがスコセッシの意図したところかはともかく部分部分、特にエンドロールに入るところで最上の体験をくれたので。

 

 枯れ葉(アキ・カウリスマキ、2023年/フィンランド・ドイツ)

 カウリスマキが信じてるのはこのシンプルな映画の滋味を味わいきれる人間の豊穣さ。その対極にあるものに抗うために。短い映画なのに小ネタは捨てず、シネフィルいじりの部分はこの年『はなればなれに』映画館で観れてはしゃいでいた俺に効いてただ一人笑ってしまった 恥ずい。

 

 スノー・ロワイアル(ハンス・ペテル・モランド、2019年/アメリカ)

 一言で「リーアム・ニーソンB級映画」といってもこんなにバリエーションがあるのかと毎回驚かされるが、その最たるものだった。ゲームのように為される復讐が次第にコメディと化していく。

 

 マンイーターグレッグ・マクリーン、2007年/オーストラリア・アメリカ)

 「ワニのテリトリーに入ってしまったらもう、しょうがないよね」と言わんばかりの突き放しぶり。オーストラリアの動物パニック映画は人間を突き放していて恐ろしく、突き放された人間にできるせめてもの事がラストにふとした感動を呼ぶ。

 YouTubeプレシディオチャンネルやポニーキャニオン映画部の無料公開映画は「見逃されてた佳作」揃いで素晴らしいです。

 

 アイスロード(ジョナサン・ヘンズリー、2021年/アメリカ)

 B級映画だけど、労働者賛歌として嫌味がない。

 ジャンルが持つ懐深さと脱臭機能。

 

 スティルウォーター(トム・マッカーシー、2021年/アメリカ)

 窓から吹き込む風。スティルウォーターでマルセイユで繰り返す解体業。不器用だが突発的暴力は得意な中年男。

 トム・マッカーシーにしてこの黒沢清。キヨシがフランスを撮れば『ダゲレオタイプの女』になった訳ですが、こういう映画もありえたのかも知れない。

 

 感染家族(イ・ミンジェ、2019年/韓国)

 俗物だらけの一家がゾンビ・パンデミック下でゾンビ商売に手を出すコメディ。だらしのない家族がめちゃくちゃになった世界で生き延びようとする様が振り返ると暖かくて、鑑賞当時よりじわじわ好きになってる。

 

 ワザリング・ハイツ ~嵐が丘~(アンドレア・アーノルド、イギリス/2012年)

 イギリスの女性監督がリアル荒れ野で撮った『嵐が丘』。

 荒れ狂う風の音、草いきれや泥の匂い、肌に沁み入る雨と冷気。

 繊細さを図太さにはき違えた御大テレンス・マリックを遙かに洗練させるとクロエ・ジャオになり、クロエ・ジャオをより先鋭化させるとアンドレア・アーノルドになる。

 ちい名前覚えた。

 

 妖刀物語 花の吉原百人斬り(内田吐夢、1960年/日本)

 有無を言わせず主人公に同情させる構成、現代のアイドルビジネスに通じる「持たざる者」がその欲望を搾取される構造も本当に強いが、冒頭の屋形船が並ぶ夜の河や吉原の屋根上での捕り物の長回し等、映画の世界に引き込む潤沢な画面が羨ましい。

 

 狂った野獣中島貞夫、1976年/日本)

 早すぎた『スピード』。映画そのものが走り続けていて、「あるキャラがバスから脱落すると、本来スピードを緩めるはずの回想に入り、真相を明かした後に再び現在暴走中のバスに追いつく」という意味不明なことが起こる。 

 過去が現在に合流するのだ。

 

 101匹わんちゃん(ウォルフガング・ライザーマン、ハミルトン・ラスク、

  クライド・ジェロニミ、1961年/アメリカ)

 広告のようなアートワークが延々続くビジュアルにビックリし、動物たちが連携してクルエラ一味のアジトを突き止める犯罪映画的な匂いも持ち合わせる。スマート。

 

 沓掛時次郎 遊侠一匹(加藤泰、1966年/日本)

 終盤、長回しで語られるここまでのあらまし。その語りが終わった時に新たに生まれるドラマ。活動も停滞もモノした構成美と、戦争映画のようなローアングルの斬り合い。

 

 ブルー・クリスマス(岡本喜八、1978年/日本)

 宇宙からの侵略モノを「侵略されてる状況を逆手に取った権力の横暴」として捉え直した視点と、勢いで撮られた幅広いシークエンスの数々のにぎやかさ。

 ほぼ「は?」「はあ?」の生返事で乗り切ろうとする仲代達也のワガママな芝居。

 

 美女と野獣(カーク・ワイズ、ゲイリー・トルースデーズ、1991年/アメリカ)

 ディズニー黄金時代のピークに納得。

 モブの顔にアニメーターの個性が刻印されているところはCG時代にはない味わい。

 

 ナショナル・ギャラリー 英国の至宝

 (フレデリック・ワイズマン、2015年/アメリカ、フランス)

 歴史(美術、芸術)と今を生きる私達との間にある断絶を、絶え間ない言葉で修繕し語り継ごうとする営みの尊さ。文化を軽んじる国は亡びるだろう。

 

 ドクター・ストレンジ マルチバース・オブ・マッドネス

 サム・ライミ、2022年/アメリカ)

 一緒くたにして「最近のMCUはダメだ」と言いがちな風潮だけど、普通に「サム・ライミのフィルモグラフィの一本」として溶け込んでる本作のB級具合は、正に量産されるアメコミ的な存在で良いのではないかと思った。

 

 NOPE(ジョーダン・ピール、2022年/アメリカ) 

 I MAXで観たかった。この空間を捉えて観客をここに立たせようとする。そういう見世物根性が好き。

 

 ブレット・トレイン(デヴィッド・リーチ、2022年/アメリカ、日本、スペイン)

 時間軸操作、誇張したキャラ、ハリウッド製アジア。どれもが絶妙にダサいことによって既存作のどれともズレた、意外と新しいスタンダードを生み出せている気がする。「ずっと続いていてほしい」と思えた。

 

 mid90s ミッド・ナインティーズ(ジョナ・ヒル、2018年/アメリカ)

 郷愁の空気を捉えながらそこを走るスケボーは、少年たちは、紛れもなく「今」ここに切り取られている瑞々しさ。

 

 パラノーマル・アクティビティ第2章 Tokyo Night(長江俊和、2010年/日本)

 日本もPOV出来るんじゃん。青山倫子の自然な妖艶さが姉弟の距離感に湿った空気を生み出し惹きつけられる。

 

 殺人鬼から逃げる夜(クォン・オスン、2021年/韓国)

 韓国実録映画でおなじみ「警察の無能ぶり」がフィクションな本作でもフルに発揮されるが、それはやはり「社会に見落とされてきた人から見た世界」の表象なのだとハッキリする。明らかにクライマックスが一段無駄に多いのだけど、そこから本作が描き出そうとしているものが浮かび上がる。

 

 オールド(M・ナイト・シャマラン、2021年/アメリカ)

  映画の中で上映時間以上に物語時間が進んでいく「映画のウソ」を、「映画のホント」に変えてしまう離れ業。「ここにある確かな時間」がただの理屈でなく狭いビーチでのキャラの行き来とカメラの移動でしっかり捉えられる。傑作。

 

 〔アパートメント:143〕(カルレス・トレンス、2011年/スペイン)

 超常現象調査チームが心霊現象の謎に挑むのでPOVに無理がない。

 ホラーでありつつお仕事モノという点にときめいた。

 

 ザ・メニュー(マーク・マイロッド、2022年/アメリカ)

 『世にも奇妙な物語』の一篇を引き延ばしたみたいな安い風刺喜劇だけど、それを真面目にしっかりやられるとウケる。逆に『世に奇妙』はあらすじばかり面白そうで、作品の中身そのものは全然充実してないからなぁ。

 

 ナイトメア・アリー(ギレルモ・デル・トロ、2021年/アメリカ)

 見世物小屋の先にいかなる醜悪や落胆が待ち受けていることか。

 けれどもそれを知らずにはいられない。映画も人生も同じように。

 

 ダブル・サスペクツ/ルーペ、嘆きの光

 (アルノー・デプレシャン、2019年/フランス)

 ジャンル映画的な導入から、容疑者を絞って以降は曰く言い難い人間の複雑な脆さを直視させられる作り。これはつまりジャンルをはぎ取った先にある「犯罪映画」なのだ。

 

 アンテベラム

 (ジェラルド・ブッシュ、クリストファー・レンツ、2020年/アメリカ)

 何も調べないでタイトルだけ覚えて見てください。あらすじとか絶対見ちゃダメ。

 まだ映画見てこんなに驚けるんだって自分に感動した。

 

 劇場版ツルネ -はじまりの一射-(山村卓也、2022年/日本)

 新生京アニの情報量の詰め方が生み出す生きた世界(例えるなら『ER』のよう)は素晴らしく、ツルネも1期とは比べ物にならない出来の良さの2期がその方向性でベストをたたき出しているのだが、面白いことに1期の総集編の本作は1期より2期寄りの印象を与えてくれる。

 

 ファインディング・ドリーアンドリュー・スタントン、アンガス・マクレーン、 

  2016年/アメリカ)

 多動の主人公の障害を一切消さずにここまでダイナミックな活劇を作れる。

 『トットちゃん』と背中合わせの作品。

 

 きさらぎ駅(永江二朗、2022年/日本)

 もっとお芝居頑張れなかったかとは思うけど、映画をRTAホラーゲームに変えてしまう発想が天才天才天才。

 

 ダーク・ハーヴェスト(デヴィッド・スレイド、2023年/アメリカ)

 今年の拾い物ナンバーワン。

 不条理な風習で若者が殺され続ける街。その最悪の儀式と顛末を描く。

 容赦ない殺戮描写が、次第に何を意味するのか見えてくる。

 そこに鈍感でありたくはない。

 

 G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ(ロベルト・シュヴェンケ、2021年/アメリカ) 

 気恥しい、「世界が見たいトンデモ日本」のオンパレードなのだが、それを実際に日本ロケで金使ってやってると、他の誰でもない自分がこういう邦画を見せてほしかったのではないかという気がしてくる。

 

 アウトレイジ 最終章(北野武、2017年/日本)

 予想外に面白かった。武はもうずっとアウトレイジを撮っててもいい。

 

63.ケリー・ライカート全般

 年末にきってやっと映画ファンらしい「特定の作家を追いかける」をやりました。

 移動と停滞と漂流。フィルムの中に観客を安住させない。ただ共に惑い、さまよい、揺れる。

 

 三姉妹(イ・スンウォン、2020年/韓国)

 辛気臭くなるような要素で満ちているのに少しずつズレて噛み合わない構成がけん引し続け、いざ合流すると一気に蹴りをつける。

 人間ドラマの皮をかぶった西部劇だと思った。

 

 MONOS 猿と呼ばれし者たち(アレハンドロ・ランデス、2019年/

  コロンビア/オランダ/アルゼンチン/ドイツ/スウェーデン

 前半の「まったく新しい何か」を観ているゾクゾク感がたまらなく、後半は次第にその新鮮さが従来の映画との距離によって作られていると明らかになっていき、少し手の内を知ってしまったがっかり感があった。

 その上で尚、ずっと新しい。

 

 コマンド―(マーク・L・レスター、1985年/アメリカ)

 大味なバカ映画のようで大枠の構成は整っている。

 いつシュワの筋肉を映すか。どのような出で立ちで映すか。いざ筋肉がむき出しで映ればそこから先は一方的な虐殺の始まりだ。

 話の停滞しそうなポイントでヒロインの参戦が点火するのも意表を突く。

 

 ほつれる(加藤拓也、2023年/日本)

 邦画もちゃんと見なきゃダメだなと思いました。

 

 レッドタートル ある島の物語(マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット、2016年

  /フランス、ベルギー、日本)

 つるつるの足場で足を滑らせて出口のない岩場の中の水中に落っこちてしまうくだりの、見ているこちらも連動してしまいそうな身体の動きの細やかさ。

 寓話にまとめられた凡庸な家族像や人生譚に堕してしまいそうなところ、タイトルにもある亀の存在が物語像にふくよかな余白をもたらす。

 

 ホワイトノイズ(ノア・バームバック、2022年/アメリカ)

 異端の頭でっかち作家ノア・バームバックNETFLIXと相性良いのは最初から「NETFLIXに使われるのではなく使ってやろう」という意志が明確だからだと思うが、その最たるもので、パンデミックの恐怖から一人の男の自意識の中へ、スピルバーグ宇宙戦争』オマージュの大パニックからゴダール『万事快調』みたいなスーパーまで、映画らしい構成術も無視した奇怪な話を予算をかけてやりきる。蛇行しているようで、そこにちゃんと現在の世界に足掻く私達がいた。

 

 アテナ(ロマン・ガブラス、2022年/フランス)

 延々続く苛烈な長回しで描かれる暴徒たちの怒り。長回しの賑やかさが=怒りであり、それは愚かだが確かなエネルギー。冷笑しかない国に生きてるとこの愚かさの全てが羨ましい。

 

 エノーラ・ホームズの事件簿2

 (ハリー・ブラッドビア、2022年/アメリカ、イギリス)

 単なる「シリーズ二作目」に留まらない背負った要素の多さをエノーラの能動性によって繋げていく。ガールズ・アドベンチャーというジャンルを確立できた頼もしさがある。

 

 タイラー・レイク -命の奪還-2(サム・ハーグレイヴ、2023年/アメリカ)

 前作に続き話にピンとこないままこれでもかの長回しアクションを見せられ(露骨に『ザ・レイド2』)、すでに感動はなく食傷気味だったけど、終盤に今度は長回しなしでキチンとカットを割ってふんだんなアクションでもう一度盛り上げる。その意地は凄いと思った。

 

 ザ・キラー(デヴィッド・フィンチャー、2023年/アメリカ)

 フィンチャーの精緻な撮影はつい完璧さの追求の為にあると思われがちなところ、本作は「弛緩の為に」あるのではないかと思った。システムを射抜け。

 

ワースト(劇場鑑賞した内)

ゴジラー1.0』『君たちはどう生きるか』『ソフト/クワイエット』

『キリエのうた』『アイドルマスターシャイニーカラーズ第一章』

 

 詳細。『映画鑑賞2023』『映画の採点』『filmarks

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