風が生まれない場所 - 『君たちはどう生きるか』感想

 スタッフ

【原作・脚本・監督】宮崎駿

作画監督本田雄 【美術監督武重洋二 【ハーモニー】高屋法子

【助監督】片山一良 【色彩設計】沼畑富美子・高栁加奈子

【音楽】久石譲 【撮影】奥井敦 【編集】瀬山武司

 

 キャスト

【眞人】山時聡真 【青サギ】菅田将暉 

【ヒサコ/ヒミ】あいみょん 【キリコ】柴咲コウ 【夏子】木村佳乃

【勝一】木村拓哉

【あいこ】大竹しのぶ【いずみ】竹下景子【うたこ】風吹ジュン【えりこ】阿川佐和子

【ワラワラ】滝沢カレン 【インコ大王】國村隼 【老ペリカン小林薫

【大伯父】火野正平

 

 再見して来ました。

 昨年の初見時には酷評を。

filmarks.com

 

 この時抱いた失望に一切ウソはなく、死ぬほど高かった駿へのハードルが一般的な映画の地平に落ちたところで再見しての感想。

 初見時大スクリーンを眺めて感じた「駿、枯れたのか。。。」という寂寥感が、本作独特の居心地の良さに繋がっていて、例えば「こんなにつまらないのウソだろう」と思って繰り返し足を運んだシン・エヴァがつまらないままだったのとは訳が違って、「こういうアート映画」としての完成度は意外と整えられていた。

 一番はスクリーンに見合う世界が広がっていて、腐っても絵のセンスは的確だったこと。「下の世界」と同じくらい「屋敷」の中にも空間がある。それはCGを用いただろう廊下の直進より、いくつかある眞人が青サギの迫る窓枠を振り返るシーンの方がより厳密な、そこにその窓を直視せざるを得ないシンプルなショットの魅惑がしれっと貼りついている。

 それは前提として。

 

 やはり老齢の為に全体の細部に手が行き届かなくなった(本田雄や片山一良に預けた)結果なのか、以前なら見せただろう「アクションによって理屈を超えてシーンが展開する」飛躍、またそれを行う手つきの「タイミング」の快楽が見受けられない点に顕著で、それを自分で理解しているかのようにシナリオ上も「行くかに見えて行かない」が繰り返される。

 今までだったらアバン越えたら真っ先に「下の世界」だ。だが眞人はなかなか不思議のトンネルをくぐろうとしない。

 「何か起こるかも知れない」という予感と「もはや何もないかも知れない」という胸騒ぎと、今思えば初見時も(シン・エヴァも第三村が出てくるまでの冒頭だけはそうだったように)この先に何があるのか/ないのかとハラハラしたこの時間が一番貴重な映画体験だった。

 それでも何かあると信じたい。監督と観客が映画に向ける感性を一つにするような、そういう映画になっている。その願いは無残にも裏切られるのだが、結果に至る過程に本作が情報秘匿したまま公開した唯一無二の価値があった。

 

 青サギは文字通り詐欺師として、そんな淡い期待、ファンタジーという幻想にすがる心に取り入ってくる。

 美しいかに見えたその正体は、しかし実際は酷く醜く。

 青サギとの小さなバトルの繰り返し。何かが起こりそうで起こらない、洞のような時間が映画を支配し、それは「下の世界」に落ちてからいよいよその空虚さ、身もふたもない野蛮さをむき出しにして殺伐とイマジネーションを消費する。

 この虚しさは、圧倒的知識量から生じるディティールでその世界の広がりを信じさせてくれた過去の諸作、または果てしないあの世の片隅にあるような湯屋と違って、どこまでいっても大伯父の積み上げた積木の世界だから。

 個人的に人生のバイブルとしている、もう長年読んでいないが一応文庫本はいつでも読める位置に置いてある、渋谷陽一独特のクドさで宮崎駿に食い下がるインタビュー本『風の帰る場所』。本作を見る上での補助線となるだろう発言やインスパイア元への公言で満ちているので未読の方いたら是非読んでほしいけれど、映画にさしたる興味があるとは思えない渋谷でもついタイトルに使用するくらい宮崎アニメを象ってきた「風」、その風の吹く場所へのイマジネーションが本作は働かないのだ。

 きっと狭い空洞をどこまでも拡大させた世界なのだろうと観客は自然と思わされ、無風の真空状態を旅するような空疎な心もとなさに閉じ込められる。

 果てしない空の上にもただ地上があるだけだろう。そこへ飛び立ち甘美なリーンカーネーションを成そうとするワラワラは、呆気なくペリカンに貪られる。

 

 ではこの映画は初めからこうも空疎な無力感に囚われていたのか。

 いや冒頭、火災シーンの迫力は誰もがねじ伏せられるものだった筈。

 大平晋也パートだからずば抜けて良いのだ、と初見時は思考停止し、そのアンバランスに落胆もしたが、再見時はここで母と死別してしまった眞人の世界がそこから先、映画全体を覆う空虚な心の洞/喪失感に囚われる流れは至極当たり前の構成として受け取れた。

 今までは「風」を、「体感時間」を捕まえることで、そこにシネフィルが持ち前の映画知識だけでは介入できない宮崎アニメ流の「活劇」はグルーヴをキープしてきた。それはそこに生きた世界があるから成立したことで、観客は宮崎アニメの世界に浸ると自分が身体を使い、風を受けている感覚を無意識に反応させてそこに濃い体感を過ごすことが出来たのだ。

 だけど本作に於いて眞人の心はすでに一度死んでいるから。

 ここにあるのは生きた風も時間もない、空疎な凪。真空世界。

 今までポジティブに描かれてきたイマジネーションの、ネガへの反転。

 拡がるのは世界ではなく、どこまでも伽藍洞な自分の心。

 多彩な妖怪も神様も消え、ただ面白味のないデザインの鳥人間たちが殺伐と命を刈っている。

 最近『王と鳥』を見返したのだけど、きっと似てるだろうなーと思ってたあの作品ともまた違った空虚だったのは見当が外れた。ポール・グリモ―は自分のイマジネーションを信じているから。

 

 この空虚の果てで、無力かに思えたイマジネーションの残滓はせめての影響力を現実に対して行使し、崩壊して役目を終える。

 アレンジを捨て、宮崎駿が過去発言していた様々な作品の要素がほぼ隠しもせずむき出しで徘徊している「下の世界」だが、それはつまり創造的時間を終えたあるアーティスト(彼のモデルは高畑勲ではなく宮崎駿だといいたいが、当然どちらでもなく「大伯父」は「大伯父」である)が世界を創り切った後に、まだ出がらしの元ネタが吐き残された体内残留物として転がっているに過ぎない。

 ガラクタだけ寂しく転がっている世界。寿命を終えたファンタジー

 でも、そんな洞の中からも持ち帰ったものがある。

 

 本作の空虚が自明のコンセプトの要請に従ったものだとしたら、まだ続くものはあるだろう。

 (ラストシーンでは「風が吹く」べきではないかと思うのだが、ポケットをゴソゴソするにとどまる。風は生じない。それではやはりファンタジーに過ぎないというように)

 

 余談だけど本作にアニメの魅力を感じる点があるとして、キャスティングだと思った。キムタクは、菅田将暉は、あいみょん(俳優業するとして)は、柴咲コウはetc……「こう」使うのが本当は最適なんじゃないかという奇妙な確信。

 自分の肉体に縛られてしまっているだけで、その存在が演じるに一番見合ったキャラクターを活き活き演じていると思う。

 自分がずっとタレント俳優に否定的になれない理由を不意に見つけた気がした。

 自分の肉体を離れた役者本人の在り様が光っていた。

 

 以下おまけ。

 

 ところで『プロフェッショナルの流儀』の宮崎駿回をフルにではないにしろ視聴して、つい自分も「荒川(密着ディレクター)はさぁ」と親し気に語りたくなるが、荒川はどこまでも目の前にいる人の発言にしか興味がないらしく、それを切り取って過去のジブリアニメとサンプリングして新たな物語を作り上げてるだけで、『君生き』という映画に、アニメに、一ミリも向き合ってないことに吃驚した。

 二十年間ジブリに密着するより前に、またはその最中に、もう少し創作について磨いてきた鑑賞眼はなかったのだろうか。

 あなた達がアニメに命を注いだように自分はドキュメンタリーに徹するという意志があればまだよいのだが、ネトフリに転がってるアメリカの量産型エンタメドキュメンタリー形式の軽薄さは、宮崎駿高畑勲が向き合っている「映画」や「アニメーション」へのまなざしも重みも欠片も共有していない。

 確かに貴重な発言や映像は沢山見れてお得だったが、「男男の感情が~」とかで気持ちよく消費してわかったフリにさせるのはあまりに、作品を矮小化していないだろうかと強く疑問を抱きました。

 それでも痩せてかえって矍鑠とした宮崎駿が車を運転したり散歩する姿、まだまだ引退には早いなと信じさせてくれたのは見て良かった。