朗読劇『私の頭の中の消しゴム 15th Letter』

4.11(木)よみうり大手町ホールにて.

日本の連続ドラマ『Pure Soul』、及びそのリメイク作で日本でも大ヒットした韓国映画私の頭の中の消しゴム』を原作に、15年間続いてきた朗読劇。

その15年目最初の公演に小泉さんが出演されたので観劇して来ました。

お相手は元歌のお兄さんとして有名な横山だいすけお兄さん。横山さんのファンダムらしき集団がお子さん連れだったのが少し面白かったです。

 

家の外観を思わせるセットを背景に、そのセットが家の「中」にも「外」にも取れる仕組み。

まず小泉さん演じる薫、横山さん演じる浩介は互いの朗読劇の台本(日記)を手に取って読み進める。

いよいよ二人が出会うところから自分の台本へと持ち替えて本編スタート。

全編通して、台詞の前に日付を読み上げ経年を感じさせる効果が強烈。

お話はもう有名なので紹介するまでもないかも知れませんが、直球のメロドラマとしての男女の出会い、衝突から恋愛にいたるまでをストレートな喜怒哀楽で描き、幸せなゴールインを迎えてから、薫を若年性アルツハイマーが襲う、というよりすでに蝕まれ始めていたことが明らかになる。

前半ではだいすけお兄さんの芝居に笑いを堪えたりして、リラックスした表情さえ見せてくれた小泉さんですが、後半の冷静に努めようとしたり諦観に囚われたりする健常時と幼児退行したかのような健忘時のお芝居の緩急が圧巻で、なまじ「綺麗な容姿」と「幼い愛らしさ」を行ったり来たりすることが魅力な(そのことを自覚されている)小泉さんが演じるからこそ、普段のチャームさえ残酷な現状として現前するので、うわ助けてくれ、ここから逃がしてくれと動揺してしまいました。

病状を通告されたあと、スポットライト当たる小泉さんの完全なる「絶望」の無表情、無言のまま何十秒も会場を無音が支配するあの時間。観客にそこから先の覚悟を強いる沈黙。

当日は平日の日中、決して多いとは言えない客入り、言い換えればみんな目の前でこのお芝居に対峙して、不要な音すら立てられない、目を逸らそうものならその態度すら役者に見透かされるだろう緊張感を強いられる。

舞台って、本当に文字通りの意味で「役者と観客がいて成り立つ」場で、つまりこちらも油断してはいけないんだと思い知らされました。

次第に「催涙弾を投げ込んだよう」という定番の表現がぴったり当てはまるような啜り泣きが会場を支配していき、それでも容赦なく芝居が続くことで、逃げようのない病気というものがそこにただ展開し続けます。

 

映画版は今はない津田沼パルコの最上階の、さらにとっくになくなっていた津田沼テアトルシネパークで鑑賞していたのですが(映画館の無料鑑賞券が当たって、普段あまり通わない映画館に行ったことでドキドキしたのを覚えている。二番館的な形態で、封切り時ではなかったかも知れない)、その時と感想はほぼ同じ、「メロドラマ的なチープな展開を、悲劇の総量と畳みかけで圧倒してくる」作品。

後日、それぞれの推し目当てに他の回を鑑賞したフォロワーさん達の感想で、「彼と彼女の職業をしてその言動はおかしい」「実際目のあたりにしたこの病気の身内の動向としてはありえない」など冷静な指摘が入り、実はちょっと安堵したというか腑に落ちるところもあったのですが、その違和感を押し切られるほどに小泉・横山ペアの相性の良い芝居に打ち震えていました。

(15年も続けているのであれば、細かくブラッシュアップしても良いのではとは確かに思うし、最初の日記の交換も終盤に活かしようがある気がした)。

後半は小泉さんに圧倒されましたが、前半は横山さんの教育テレビ仕込みの明朗な、観客に語り掛けてくるようなお芝居のお陰で朗読劇の世界に入りやすかった点、自身の出自を上手くプラスに作用されてるのだなと、完全なる同郷の者として少し誇らしいです。

 

白眉は後半、痴呆が進み続け、それでも努力して記憶を維持するために壁に貼り付けたメモのポストイットが、一枚、また一枚と落ちていく、不条理な時間の不可逆性。

最初に一枚がひらりと落ちた時、「本当に落ちたんだな、偶然が舞台に味方してる」と思ってしまったたくらい自然だったのですが、その後最後の一枚にいたるまで落ち続けて「あ、これ仕掛けなんだ」と驚き、最後に壁かけのフォトフレームが傾いで終わりを告げる。

フォトフレームはともかく今振り返ってもあのポストイットの仕掛けはどうやってるのかわからず、本来「台本持ってる役者ふたり」という、観客にも手の内が全部見えるはずの朗読劇という場で、こちらがまったく手の内さえわからない現象が=アルツハイマーの恐怖として展開する場面、息を呑みました。

 

去年、朗読劇WARAIGOEの中の一篇で、いつになく穏やかで慈愛を湛えたオーラを放つ芝居をされていた小泉さんが「実は妊娠していた」という設定を演じきった時、「女優:小泉萌香」の新境地を視線の合う最良の席で見つめること叶い、言い様のない気持ちになったのですが、ある意味その芝居の前後にあたるような恋から愛、そして喪失にいたる女性としての小泉さんをすべて味わえてしまった気分。そんな切ない充足感と、胸に穴が開くような寂寥感とを覚えました。

 

悲劇は突き抜けるとカタルシスになる。

最後まで演じきった後、カーテンコールで出て来たお二人が、観客に対して何か言葉を放つのではなく、拍手の続く限りただ何度もステージに現れては「幸福な薫と浩介」として何度もステージからはける、、、を繰り返して、それが演出なのかもしかしてお二人の発案か、はたまた気分のままにアドリブでしたのか、こういうカーテンコールの使い方もあるのだなぁと。

あの時間がなければしんどいままでしたからね。

徹夜で仕事し、開演30分前に最寄りの駅で終えるという無茶を押し切って観劇したこと含め、忘れられない体験となりました。

 

 

余談.

 

あの限られた観客の体験と啜り泣きの海の中に雛形さん混ざってたんかいとクスッとなりました。