ゴールの手前で引き返す ー 『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が映画としてダメだと思う話

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一年越しの有言実行。

 

こちら、あまりに多くのフラストレーションを抱え込む事になった『シン・エヴァンゲリオン劇場版』について、無限に感想を羅列していった結果まったくまとまらなくなって、そのまま一年間放置していた記事となります。

 

いつまでも放置しているのは心に毒なので、特に見返したりせず、少し冷静になった今の心象に沿ってとりあえず断片的なメモを拾い集めて、全体の7割ほどを捨象し、簡易な記事に纏めていきます。いずれ見返したら適宜修正入れるかも知れません。

一年前はもっと細かい名称や検証を入れていくつもり満々だったのですが、なんとなくで伝わるでしょと思うのでやめます。批判への熱意も薄れてしまった。

 

エヴァとの個人史を開陳しておくと、出会いは旧劇公開時の深夜再放送。色々とショックは受けるも、まだよくわかっていませんでした。

二十歳頃に改めて再鑑賞。TVシリーズの途中までは滅茶苦茶傑作と興奮し、意味不明だと思っていた旧劇場版も(この頃に『スキゾ/パラノ(エヴァンゲリオン)』を読んだ事もあり?)自然と飲み込んで満足。ただ「続きが知りたいぞ」と思い、ノートに「全て終わってしまった赤い海の世界を彷徨うシンジ、アスカ、レイ」を描く『新世紀エヴァンゲリオン2』をしたためていたりしました。崩壊した世界で孤独と他者の恐怖は続き、それでも如何に生きていくかという話で、クライマックスには『Fry Me To the Moon』がかかります。エヴァオタクの二人に一人は似たような経験があると信じています。

アメトーークエヴァ芸人でこの記憶を刺激されたまま迎えた『序』映画として些か駆け足過ぎとは思いつつ、思い出補正で楽しみました。

そして『破』人生で初めて同じ映画に何度も足を運びました。エンタメとしての音響カッティング反復と差異諸々タイミングの見事さ、蓄積してきた内省的世界からの解放、今もってこんなに純粋にアトラクションとして楽しんだ映画は他にありません。傑作です。

待ちに待った『Q』前作の希望を全てうっちゃる絶望的展開。前作のような劇伴と絶妙なタイミングを伴うアクションシークエンスの盛り上がりが少なく(それでも皆無では無かった。アバンタイトルのヴンダーからのシンジ脱出の流れ、終盤走ってジャンプする弐号機)、あらすじとは別に演出として眠たい場面が多い。初見は「これはダメかも…」と思ったのですが、最後によろけながら終わってしまった世界をディスコミュニケーションを抱えたまま歩む三人の姿が、正に上記した自分の二次創作、「こうあって欲しかったエヴァ」だったので、これはこれで興奮しました。

当然『シン』は「この先」を見せてくれる話だと思ったのです。

 

ところがーー

 

『シン』公開初日。詳細省きますが環境的にも座席的にも何もかも100%快適な状態で享受しました。「ついにエヴァを見届けた」という興奮をTLと共有しようとするも、脳裏にある消えてくれないわだかまり

 

「全然、面白いシーン無かった……」

 

まずストーリー的に過去の埋め合わせや答え合わせをするだけで、実は『Q』のラストシーンからまったく「先」へ進んでくれない事。

そして『破』では全開で『Q』でもまだ微かに残っていた、本来のエヴァンゲリオンの面白さの謂わばツボであった、「劇伴や歌唱曲とマッチした面白いアクションシーン」が皆無だった事。一度も目を瞠ることなく終わってしまったのです。「第三村」登場は(その保守的懐古的な内情描写の陳腐さに呆れていく事になるとは言え)確かに初見時のインパクトでは唯一刺激的ではあったのですが、逆にそれ以外に「そうきたか」という瞬間があったでしょうか。 

また、パンフの監督声明で「出来たこと」になっている映画的技巧の面白みも、普通に全然感じませんでした。

 

この「アクション」というのは広義のそれもさしています。難しい実制作的技巧の点ではだいぶ新しく自由度の高いことをしているらしいのですが、結果として映画的技巧の点でカットの制約の面白さを薄れさせてしまったのではないでしょうか。作画の精密さで良い場面のような気がしてしまう。でも興奮はしないカットが多い。

あるキャラの初登場シーンで襖越しに声だけが聞こえて、状況説明よりその場面の誰にどうスポットを当てているかが重視されているショットがあるのですが、そこでは確かに時間が持続し、映画的スリルが宿ります。本作の数少ない気の利いた映画的瞬間でした。

 

エヴァンゲリオンには興味があるけど庵野秀明には興味がないので、公式も「勝手に総監督の私情と結びつけられたアンチには困ったものだ」ムーヴをとるなら、同時に同じ理由で逆に褒めそやされたり持ち上げられる風潮と、その風潮を作り上げ、乗っかってきたことにも相対的な視点を持って欲しいと言いたくなります。

 

また、劇伴で上がるシーンが徹底して無かったーー中盤からのヴンダー特攻でもシンジくんが部屋に格納され座り込んでいるシーンを挿入するために、映像生理と物語的カタルシスの二重の点で勢いを削がれてただの『Q』クライマックスの焼き直しになっており、そして『Q』自体そこまでアクションは面白くなかった。

どんな新しい用語を駆使しても何か明白で魅力的なデザインの使徒エヴァが新しく登場していたでしょうか。「そうきたか」となる戦闘シーンのアイデアが何かあったでしょうか。個人的にはありませんでした。

そして昭和かどうか知らないけど古い歌謡曲遣いも何一つフィットせず。これに関しては『破』でもギリギリだなと感じていたのですが、還暦迎える監督が古い曲ばかり流してもそれはひたすら懐古趣味でしかなく、異化効果など生まれようないのです。

 

何より、絶望と断絶の果てにどこに向かうかというドラマがケンスケの登場で(つまり早々に)中断された辛み。

断絶は向こうから橋渡しされ、絶望は皆が慰めてくれ、その生ぬるい成功者の生存バイアスみたいな世界観への賛否はともかく、「シンジくんを囲うドラマ的障害が受動的に取り除かれる」というどうあっても面白くならないプロットが根底から問題だとしか思えません。

公開初日、4DX(これはアトラクション体験としてアクションシーン面白かったです)、新バージョンだという公開日(この新バージョンの意味が先日発表されてましたが、よくそれで金取るな)の計三回観ましたが、まさかエヴァでこんなに退屈な思いをするなんて、という信じられない事実がどんどん確信に変わっていきました。

 

しいて言うならアスカはもはや「シンジとドラマを演じてくれる地平にさえいない」というのは断絶の証として一つの解かも知れません。

ただゲンドウの独り語り(それも一切驚きも新しさもない)だけは、映画の感想なんて百人いれば百通りでしょうけど、あれを面白いと思える人いるの…? というレベルで毎回ひたすら苦痛でした。映画外の話なので邪道ですが、レイ・シスト先生のコミカライズ版での過去編の断片的な描写の方が遙かにゲンドウの過去に触れることが出来た気がします。

ゲンドウとの対峙は果たされていない。ここでは「シンジとかつてのシンジ」の対面しか行われておらず、父子ならそんな簡単に他者との断絶を乗り越えられるというのであれば今までの葛藤はなんだったんだという話であり、またその過程の手順も全然踏めてないのでなんかシンジもゲンドウも何かをきっかけに成長したり変化した手応えさえ得られませんでした。

あれほど一度は完全な他者と化したミサトさんが(シンジくんからすれば)完全な無私の庇護者となってくれる展開も、失望以外何物でもありません。

 

綾波に関してはもう、作り手の興味が薄れてしまったキャラへの同情しか浮かびません。シンジのぽか波への感情も、新劇場版を通して見た時にシナリオが繋がっていないレベル。

 

どんな最悪の形であっても、ゴールした『エヴァンゲリオン』が見たかった。

けれどゴールではなく引き返し、ハシゴ外し、脱臼、スライド。浮かぶのはそんな言葉ばかりでした。

『序』『破』『Q』に感じる印象として、「削ぎ落とし」があったと思います。無限に選択肢のある描写の中から、制限された枠の中で作品毎に必要なものを残し、余分を削ぎ落としていく、総監督が『シン』にあると嘯く「編集の面白さ」です(それだけが編集の面白さではないですよ当然)。

『シン』はその取捨選択の緊迫感が全て消えてしまっていると感じました。

「未知のSF」から「既知の同窓会」へ。

 

私の中のシンジ、アスカ、黒レイは今も赤い大地を彷徨っています。この世界はそんな子供達に甘くない。むしろ年々どんどん厳しくなっていく。

彼らに与えられる救いは「実は崩壊したと思ってた世界は復活していました」「実はあの人は悪い人じゃなく可哀想な大人でした」「冷たくなったと思ってた人も、本当は君の為に命まで張ってくれます」なんていうファンタジーではなく、「このままの自分達がどこまで行けるのか」を皮膚感覚のリアルで感じられる想像力の限界まで見せてくれる事で生まれるものなのではないか、という思いはまったく消えません。

 

全て差し引いても、ヴンダー艦橋で起こるシークエンス。

贖罪の扱い方、人物の出し入れのカッティング、銃撃、台詞、臨場感、当事者性を剥奪されたシンジくん、全てが一つの映像作品として、ドラマとして、アクションとして、完膚なきまでに下手クソで、世のアニメ監督の皆さんが言葉ではどんなに褒めても内心では「これなら俺でも楽勝やんけ」と思ってくれている事を願わずにいられません。

 

それでも最後に宇多田ヒカルが流れるだけで全て良しと思ってしまう気持ちもわからなくもないのですが、宇多田ヒカル主題歌の作品って大体そうだから……

 

やはりエヴァンゲリオン最高傑作は『破』のこちらの予告な気がします。

 

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説明台詞が横溢する『シン』に欠けていたものは結局、「in other words…」の粋さではなかったでしょうか。

 

ところで今さら何も新しいとは思わないラストですが、川島雄三幕末太陽傳』の採用されなかった幻のラストシーンがその雛形にあたると思います。

そして『幕末太陽傳』の幻のラストシーンへのオマージュを捧げたと思われるのが、『エヴァ』においても主にカヲルくんの海辺のイメージで引用されていると思しき寺山修司田園に死す』です(カヲルくんのモデルとされる幾原邦彦が敬愛するのもまた寺山)。

その劇中、以下のような流れがありました。

映画が中断され、この映画を撮っている監督(寺山)が、先生と呼ばれる師匠筋の誰かと飲み屋で語らっています。

 

監督「ぼくは 色んな意味で行き詰まってましてね。

 自分の子供時代を扱って書いてきましたが、実際には

 子供時代を売りに出してしまったという感じになってしまった。

 風土でもそうなんだけど 書くと書いた分だけ失う事になってしまう。

 書くつもりで対象化した途端に 

 自分も風景もみんな厚化粧した見世物になってしまうんだ」

先生「しかしそうする事によって 自分の子供時代や

 風土から自由になるって事もあるからね。

 まあ大体、過ぎ去ったことはみんな虚構だと思えばいいんだよ。全部」

監督「しかしそれを書かずにしまっておけば、

 自分の過去になったかも知れない。

 先生は原体験が現在を支えていると思ったことはありませんか?」

先生「無いね。むしろそれは、首輪みたいなものだよ。

 人間はね、記憶から解放されない限り、

 本当に自由になることは出来ないんだよ」

(中略)

先生「しかしね君、夢を計画的に見たり、

 記憶を自在に編集できるようじゃなくっちゃ、

 本物の作家とは言えないな」

 

本作は寺山(私)の少年期をノスタルジックに綴った後、

実は過去を映画化している監督(私)にカメラを向ける

非常に前衛的な作りなのですが、

この後、寺山は過去の自分を訪ね、鬱陶しかった母殺しを唆します。

少年は母をふりほどき旅に出ると、足元で線路が切り替わる。

 

最後に寺山は過去の自分の代わりに自分自身で

過去の母を殺そうとするが殺せず、

過去の母と共に現在に還ってきます。

 

殺せない親は、都合よく消えてはくれないのです。

 

 

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