スタッフ
【監督・脚本・原作】新海誠
【作画監督】土屋堅一
【美術監督】丹治匠
【演出】徳野悠我、居村健治、原田奈奈、下田正美、湯川敦之、井上鋭、長原圭太
【CG監督】竹内良貴
【音響監督】山田陽
【撮影監督】津田涼介
【椅子、ミミズ、CGキャラクター演出】瀬下寛之(御本人のどんな監督作より瀬下監督のキャリアが有効活用されていたと思いました)
【企画・プロデュース】川村元気
キャスト
【岩戸鈴芽】原菜乃華、三浦あかり(幼少期)
【宗像草太】松村北斗
【ダイジン】山根あん
【二ノ宮ルミ】伊藤沙莉
【海部千果】花瀬琴音
【芹澤朋也】神木隆之介
【岡部稔】染谷将太
【ミキ】愛美
【宗像羊朗】松本白鸚
【岩戸椿芽】花澤香菜
【岩戸環】深津絵里
『言の葉の庭』でコツを掴み『君の名は。』で覚醒し『天気の子』で調子に乗った、
日本の劇場用アニメ、ひいては邦画全体が陥りがちな鈍重なリズムを断ち切って軽快にショットを前進させていく「全編是予告ショット」な新海誠のジェットコースター映画。
その「予告ショット」は「予告編に映えそうなキャッチーな(ややもすると本編で軽くなりがちな)ショット」と「映画の先行きを絶えず予告して、一度駆動したアトラクションを停滞させない勢いカット」を併せ持つ。
鍵穴に鍵を入れる描写の二連打、ふっと息を吸って吐くと同時に自転車で下り降りる坂、そして踏切を背にして引き返し、廃墟をダッシュで探索する溜めのないジャンプショット。
アバンの時点でエンジンはふかしっぱなしで、そのままタイトルイン。
ここで息切れしてしまうのが従来の邦画の限界ですが、このまま最後まで突っ切れるのは美点だと思います。爽快感はずっと浴びていられたので。
新海誠はどちらかというと「言葉」の作家であり、そのために基本的には監督が好きな日本映画群と同じ重力、同じ鈍重さが、『秒速5センチメートル』をピークとした一時期までにはありました。
でも監督の好きな邦画群*1は「言葉」でなく「映像」への信頼で出来ていた筈だけど? という矛盾が、いつからか監督自身の意識の中でも強くあったのかも知れない。
言葉にも映像にも寄り切らない鈍重さのピークであった『星を追うこども』の失敗を経て映像に信頼を寄せるようになった途端、新海作品は一気に「走る」ようになり、「言葉」はそのフォローに必死に追走するようになる。
それまでの「言葉の為の映像」から、「映像の付属品としての言葉」へ。
そのフォローの為に要される歌唱曲とモノローグ、ダイアローグが過剰になり、以前より重要度の低下した「言葉」が、しかし余計うるさくなってしまうのが割と致命的な欠点となっていましたが、今回はそのうちの二点、歌唱曲をバッサリ切って懐メロに変わらせ、更に相方を椅子に変身させてしまう為に男女切り返しモノローグの応酬も絶つ。
そうして絶えず自分の欠点を検分し、作品のバランスを調整し、エンタメの最先端であろうと飛躍し続ける作家が事実、日本の興収でトップを走っているのはとても必然で健全であると思いました。
歌唱曲を消し、モノローグを減らした。
後は、ダイアローグを削るだけだ!
監督は自身で(以前は奥さんと)あらかじめ台詞を全部収録して作品のランタイムを計る話が有名ですが、映像に並走するような掛け合い台詞やリアクションを小刻みに入れ続ける事が可能な人で、思いついてしまうが為に、それでも実際の尺に対して言葉が少しずつ余る。もっと削れる。
『天気の子』でも歌唱曲の歌詞が「映像の時間に対してちょっと多い」という詰め込み方がどこか性急さを感じさせて気持ちが追いつけなかったのですが、歌唱曲を削ったはいいものの今回も歌詞の変わりにほぼ呼吸レベルの掛け合いが絶えず少しずつ多かった。
それは全部映像で伝わってるのに、と思う瞬間が多々ありました*2。
ただ、後はこのダイアローグの掛け合い(「えーっ?」「はっ!」みたいな呼吸含め)さえ削っていけば、更にスマートな変化が起こるのではないかと思うのです。
最近、原田眞人の新作を観て「この人はこの欠点さえ直せばもっとイイ作家なのに。。。と想い続けたけど、もうダメだ、変わらないやこの人」と自分の心の中で哀しい見切りをつけてしまっただけに、自分の引き出しを開いて閉じて、開いて閉じて、変わり続ける事を厭わない新海監督になら、その希望は抱き続けて良いのではないかと信じていたくなりました。
いつまでもアンバランスな変化の途上で在り続ける事こそがこの人の作家性なのかも知れませんが。
本作、SNSにある『耳すま』、当然芹澤が歌うあの曲と、「ジブリアニメが存在する世界線」であることを堂々打ち出してるのも実は劇場版アニメでは珍しい気がして、また前述のジャンプカットの連打は(主に日常芝居での)新海監督がたびたび劇場版を鑑賞しに行った旨Twitterで報告する京アニの得意技であり、そしてクライマックスには『エヴァ:破』まんまな構図まで登場する。
このエンタメを全部引き受けて先へ行こうとする傲慢で強靱な姿勢は、正直『秒速5センチメートル』までは1ミリも琴線に触れなかった、何が評判なのかわからないくらい凡庸さしか感じなかった自分でも、本当に遠くまで来たんだなと、気づけば頼もしく感じていました。
予告編じゃ全然ワクワクしなかったんだけどな。
ただ旅を先へ先へ推進するだけでなく、ことあるごとに「ミミズ」が出現し戸締まりにいく、いわば「クライマックスアクション」が20分おきくらいに訪れる欲張りな構成の意外性が、このライドに身を委ねる安心感に大きく寄与していたと思います。
地震警報に振り回されてきた日本の観客の記憶とライドを結びつけ、最後に実際の震災そのものへと辿り着く。手順を踏んでいく生真面目さも嫌いにはなれません。
個人的な3.11の記憶として、ニュース映像の中、流された街を山腹の道路から見下ろし、お母さんお母さんと泣き叫ぶ女の子の姿が強烈に心の片隅に居座り続けていて。
その、被災者のではなく、その記憶を持つことで小さく痛み続けていた自分自身の記憶にひとつ蓋をする、戸締まりをするなら今かも知れないなという思いも宿っています。
思えばちょうど『星を追うこども』の舞台挨拶&サイン会で新海監督にお会いしたのが
2011年の春でした*3
震災の記憶との対峙。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』が『Q』の先に至らず引き返してしまったことをずっと引きずっているのですが、本作は『Q』の先。。。ではなく、『Q』をよりわかりやすく語り直そうとした話にも見えた事が面白かったです。
では次こそは、庵野が郷愁に引き返し辿り着けなかった「この先」へ行ってくれるのだろうか。すでに社会基盤の何もかもズルズルと崩壊してしまったこの国で、それでも生きる子供たちの物語へ。
まだモチーフとしては既視感に満ちていた『天気の子』までと違って「早過ぎるロードムービーとミミズ対峙」という独自性を芯に据えてエンタメを成立させる、という進化を遂げた新海監督になら、案外「その先」を期待してもいいのかも知れないと、今は少し思っています。