憧憬は空中で旋回する ー 『トップガン マーヴェリック』感想

 

スタッフ

【監督】ジョセフ・コシンスキー

【脚本】アーレン・クルーガーエリック・ウォーレン・シンガークリストファー・マッカリー

【音楽】ハロルド・フォルターメイヤー、レディー・ガガハンス・ジマー

【撮影】クラウディオ・ミランダ

【編集】エディ・ハミルトン

 

キャスト

【ピート・"マーヴェリック”・ミッチェル海軍大佐】トム・クルーズ【ブラッドリー・"ルースター”・ブラッドショー海軍大尉】マイルズ・テラー【ペニー・ベンジャミン】ジェニファー・コネリー【ジェイク・"ハングマン”・セレシン海軍大尉】グレン・パウエル【ナターシャ・"フェニックス”・トレース海軍大尉】モニカ・バルバロ【ロバート・”ボブ”・フロイド海軍大尉】ルイス・プルマン【ルーベン・"ペイバック”・フィッチ海軍大尉】ジェイ・エリス【ミッキー・"ファンボーイ”・ガルシア海軍大尉】ダニー・レミレス【ジェイビー・"コヨーテ”・マチャド海軍大尉】グレッグ・ターザン・ラミレス【トム・"アイスマン”・カザンスキー海軍大将】ヴァル・キルマー【ボー・"サイクロン”・シンプソン海軍中将】ジョン・ハム【ソロモン・"ウォーロック”・ベイツ海軍少将】チャールズ・パーネル【バーニー・"ホンドー”・コールマン海軍准尉】バシール・サラフディン【チェスター・"ハンマー”・ケイン海軍少将】エド・ハリス【ビリー・“フリッツ”・アワロン海軍大尉】マニー・ジャシント【ブリガム・“ハーバード”・レノックス海軍大尉】ジェイク・ピッキング【ローガン・“イェール”・リー海軍大尉】レイモンド・リー【ニール・“オハマ”・ヴィキャンデル海軍大尉】ジャック・シューマッハ【キャリー・“ヘイロー”・バセット海軍大尉】カーラ・ウォン【サラ・カザンスキー】ジーン・ルイザ・ケリー【アメリア・ベンジャミン】リリアーナ・レイ【ニック・“グース”・ブラッドショウ海軍中尉(アーカイヴ映像】アンソニー・エドワーズ【キャロル・ブラッドショウ(アーカイヴ映像】メグ・ライアン【シャーロット・“チャーリー”・ブラックウッド)アーカイヴ映像】ケリー・マクドナルド

 

 さて本作を見る前に改めてアマプラで見返してみた『トップガン』。初見時の「古くてなんかモサッとした映画だな」という漠然とした印象は拭えなかったけれど、同時に、編集素材としてあまりに無駄のないカッティングの数々にはやけに惹かれてしまった。さして強固なショットがあるかといえばそんなことはなくイメージ映像的、まさにMTVが映像メディアを一新していたのだろう80年代の空気とうまく折衷させて、少なくともストーリーテリング、及び戦闘機の機体の魅力やドッグファイトのディティール、各登場人物の個性や視線の推移を伝えるにあたって実に機械的に無駄のない処理をしている。無駄はないけど、各ショットそのものは鋭さに欠け、また時に編集の停滞が緩慢だ。

 おそらく「商業主義的」と批判されるハリウッドのイメージがここでひとつ完成されたのだろうなという妙な納得感があった。工場で作られているかのような、要するに最低限必要な「説明」を宿して一度のカットで役割を終える、機能美を優先した素材が選りすぐられている。当ブログで「映画の採点」シリーズを始めてからだけでも『ブルー・サンダー』『ミッドナイト・ラン』『フライトナイト』と(わからない、始める前に見たものもあるかも)と、より「うまくいった」作品群と出会って、こうした80年代の工業製品のようなハリウッド映画に憧憬を覚える自分は否めなかった。

 ここで仕上がった「MTV的感性」と「機能美優先の基本的なショット」を、よりハイスピードの編集で詰めていくことで後のトニー・スコットのキャリアは完成されていったのは間違いないはず(最初からハイスピード編集の為の撮影をしている後進がトニー・スコットに及ばないのはその基礎の有無)。

 

 そのまま映画を撮り続け、止まらずスピードを加速させ過ぎて飛び去ってしまったトニー・スコットの早過ぎる死から10年。その起点であるオリジナルの時代の、MTV的空気、最低限の情報を緩慢に伝える機能的なショット、間延びする編集への憧憬を甦らせようという愚かな試みが『トップガン マーヴェリック』。

 あとはそこに酔わされるか興ざめするかで、過去の自分を時に笑い飛ばそうとするトム・クルーズが全てを仕切っていることへの信頼から、自分は「酔っ払ってみる」という選択を選んでみた。

 それは同時に、ジョセフ・コシンスキーという監督の映画がそもそも「80年代のMTV的イメージショット」と「緩慢な機能美」を持ち合わせ、それをずっと続けてきた人だからという納得感も込みのことで、そんなコシンスキーを『トップガン』へ連れてきたこと含め、トムの長年の計算があったのではないかという推測も腑に落ちて。

 

 コシンスキーの映画の特徴は、まるで遅れてきたマトリックス。その場その時に滞空して、浮遊するような体験感覚にある。「映画的」ではないかも知れないけれど、「映画館体験的」な監督。長編デビュー作『トロン:レガシー』の見せ場であるライトサイクル・バトルが既にして真骨頂というキャリアは良いのか悪いのか、続く『オブリビオン』でも高い空に浮遊する住居で偽りの生活を続け、球体のコクピットを持つ飛行艇で移動している前半の空間の方が、地上に降りてからのベタなレジスタンスドラマより遙かに魅力的な体感を与えてくれた。

 続く『オンリー・ザ・ブレイブ』は毛色を変え、端的に人物描写が少し巧くなって緩慢な編集に耐えられるようになったのもあるのだけど、それでも全てはラスト、自然災害がもたらす、とある最悪の一瞬に観客の気持ちを滞空させ、その悲劇を胸に焼き付けるために構成されている。

 そうした流れを受けてコシンスキーの特徴たる「浮遊して、滞空する」感覚が正に本作『トップガン マーヴェリック』でもミソとなるだろうと踏んで鑑賞に臨んでみたのだが、それにしてもここまでそれそのものだとは。

 

 基本的に、本作で話を駆動させるものは乗り物である。空母にアレスティング・ギアで留められた戦闘機が、やがて解き放たれる(この流れはオリジナルの踏襲)冒頭。

 栄光のトップガンへ帰還し滑走路を戦闘機と並走するトム・クルーズカワサキジェニファー・コネリーと交遊を温める海面スレスレのヨットセーリング、そして音速テスト、本番シミュレーション訓練から実践へ至る丁寧な戦闘コースとマッハ10の壁の困難さの説明。

 これが乗り物を離れドラマに移ると、やはり80年代的な「機能的にまったく間違っていない対象を映した基本的な説明を含むショットが、異様なほど緩慢に連なる」イメージが、それも本家と違って2022年を舞台に模倣しているためにより日常から浮き上がったありえない憧憬として、そのテーマパーク的な虚構性を高める。

 上空で展開する戦闘機のバトルより、地上の人間たちのほうが余ほど地に足が付いていないのだ。

 例えば本シリーズ同様ドン・シンプソン/ジェリー・ブラッカイマー印である『ザ・ロック』の発煙筒シーンを想起させる仰角で同作出演者のエド・ハリスがトムの乗るテスト機「ダークスター(ダークスター!!!)」を見上げる序盤のセルフオマージュ的な場面であったり、トムと同時代を第一線でサバイバルしてきたジェニファー・コネリーとの、およそベッドシーンらしからぬただお喋りし合ってるだけの睦み事がまるで今日までくぐりぬけてきたショウビズの世界の思い出を互いに打ち明け合っているようだったり、ボブ役がビル・プルマンの息子だったり、表に出なくなってしまったメグ・ライアンの存在も回想で大事にしてくれたり、オリジナルよりよほどスムーズに流れるオリジナルの楽曲だったり、時代が停まったようなダイナーで鳴るデヴィッド・ボウイだったり、そして実際に不仲だったというトムとヴァル・"アイスマン”・キルマーの和解だったり。

 かつて完成した80'ハリウッドへの憧憬が*1、すべてもはや時代遅れの緩慢な時空で楽しく戯れている。

 ビーチでのボール遊びはさながら彼岸の光景だ*2*3*4

 

 そうした追憶の亡霊を地上に置いて、その過去から地続きで存在する生身の肉体、今この時の憧憬、スター・トム・クルーズを空に舞い上がらせる。その為にコシンスキーは呼ばれた。

 それもトムはただG(重力、加齢、肉体の衰え)に逆らって飛ぶだけではない。

 マーヴェリックがパイロットの作戦参加候補生たちの前で実力を見せつける時、編隊訓練中に高難易度の技を課す時、あるいは変更しかけた作戦を押し戻すために一度は不時着に終わった無茶を再び強行する時、トムの乗るF-18は空中で華麗に、コースターが弧を描くようにグルリと旋回してみせるのだ。

 映画の残骸たるイメージは地上に打ち捨てた。

 最新鋭の「映画」は、マッハ10の壁を越えた機体として今も飛び続ける。地上に於いて繰り返し乗り物と紐付けられてきたトムのイメージが、戦闘機と一体化して、現在の「映画」を代表するように宙を舞う。

 それもただまっすぐ飛ぶだけではなく、あまつさえ浮遊し、旋回し、滞空する。「映画」はまだ如何様にも新しく遊べるのだからと。

 戦闘機アクションの一番の面白さは実はGの果てに不意に旋回、反転する瞬間、その意外性であると思う。直線に見えた動きが流れを変える裏切りの快感。敵機が見せるまるでGから解き放たれたような不思議な回避方法に、思わずルースターが驚愕の声を上げてしまう一瞬は、若者たちを美しく死地に追いやる本作が辛うじて残した平和思想のもっとも実践的な場面だった。

 一方、本作に於いてはトムが二度、そしてもう一人撃墜機から飛び出すメインキャラがいるのだが、コシンスキーからすれば腕の見せ所となるはずの「生身の人間がパラシュートで落下する」浮遊運動を素っ気なくカットする*5

 落下とは前作に於いてグースを生々しく悲惨な死に追いやったアクションであり(それを映すことはトニー・スコットの「まともさ」でもあった筈だが)、本作ではもはや強迫観念にも似た「まだ行ける」と還暦間近で危険スタントをこなすトムの信念が、現在の「映画」がマッハで飛んでいく為に、死のイメージさえも否定しているのだ。

 

 『ミッション:インポッシブル』シリーズが現在進行形の最新アクション映画の形を歪に更新し続ける一方で、『アウトロー』でロートルな自分を、『バリー・シール』で止まれない自分を茶化しても見せるトム・クルーズ

 そんな分裂したトム・クルーズを、トム自身では総括しきれないもう一つ大きな視点から改めて捉え直して象徴化を果たしてくれたのは、コシンスキーであったのか。はたまた「80'sハリウッド」の懐かしき緩慢な憧憬という器であったのか。

 世間での絶賛を目にするといくらでもバカにしたくもなるのだが*6、もし前情報入れず初日に観に行っていたら普通に号泣していた自信はあるので今は乗っていよう、このF-18ですらないかも知れない、奇跡の動きを見せたF-14に。

 

 トム・クルーズは、そしてハリウッド映画は、いや、映画は、いつまでこうして飛び続けていられるのだろうか。そんな不安を忘れ、同時に抱く、そうして2022年を刻みつけられた映画だった。

 エンドロールの後もまだしつこく宙を舞う戦闘機。そこに『紅の豚』のエンドロールを重ねて見たのは自分だけじゃないと信じたい。

 

 飛べないトム・クルーズは、ただのブタだ(そんな)。

 

 

 

*1:ま、ビル・プルマンは主に90年代に活躍した人ですが、懐かしさの度合いとして大差ないのでは

*2:勿論、トニー・スコットがそこには留まらなかったように、そこから先無数の様々な「アメリカ映画」の線は延びて今も続いている。ここにはあるのは、本当にいっときだけの、局所的な「80'sハリウッド」の亡霊

*3:でも僕は正直このビーチシーンが一番好きでニッコニコしてしまった。トイレタイムとばかり席立つのやめて

*4:しかし、90年代後半から00年代にテレビで80年代の映画を観ていた日本の子供が思い描いていた「あの頃のハリウッド」と寸分違わぬイメージを当事者たちも持っていたのかと、パロディでも見ているような気分で面喰らった

*5:個人的には見たかったです

*6:これ『海猿』と何が違うんですか