最近観た映画の感想 ー グリッドマンユニバース・AIR/エア・アルマゲドンタイム・ソフト/クワイエット

 

感想溜めすぎたので、ザクッとまとめて。

 

グリッドマン・ユニバース』★★★☆☆

 スタッフ

【監督】雨宮哲【脚本】長谷川圭一/雨宮哲【キャラクターデザイン/総作画監督】坂本勝【音楽】鷺巣詩郎

 キャスト

グリッドマン緑川光【響裕太】広瀬裕也【内海将】斎藤壮馬【宝多六花】宮本侑芽【麻中蓬】榎木淳弥【南夢芽】若山詩音【山中暦】梅木裕一郎【飛鳥川ちせ】安済知佳【レックス(ガウマ)】濱野大輔【サムライ・キャリバー】高橋良輔【マックス】小西克幸【ボラ-】悠木碧【ヴィット】松風雅也【六花ママ】新谷真弓【なみこ】三森すずこ【はっす】鬼頭明里【ナイト】鈴村健一【二代目】高橋花林【新条アカネ】上田麗奈【アレックス・ケリヴ】稲田徹【マッドオリジン】神奈延年【ひめ】内田真礼【大学生】神永レオ【暦の母ちゃん】折笠富美子【???】小尾昌也

 

 非常に良く出来た『シン・エヴァンゲリオン』で、ファンサービスの商品としての祭りを作品としての整合性を高めて送り出す。今までの物語の空白部分に「空白であるが故の孤独」を埋め、みんなが揃っても尚、個人が時間を重ねて生きて個人として発見していく事を大切にしている。

 それでも(それ故に)TVアニメのSSSSシリーズに感じた新しい余白のようなものは霧散してしまい、余白のせいで完成度が高いとまでは言えなかったTVアニメはしかしそこが魅力だったんだなと再確認していた。劇場で二度観て、初見時から「面白い、はずなんだけどノリ切れていない」自分がいて、敵の強さが感じられないのに合体強化集合のインフレを繰り返す後半ずっとお決まりの見栄と口上だけを魅せられている居心地の悪さがあるのは、再見するととても長く感じてしまった。決まっているは決まっているので退屈な訳ではないのがよりもどかしい。

 終わらない学園祭という「劇場版やるならこれだよねー」という目配せ(もっと描ききって欲しかった)、合体や全員集合が延々続く「我々の歴史を考える上でエヴァであると同時にグレンラガンだよねー」という目配せ(「こういうのは全ての観客が喜ぶ」とパンフに書いてあったが、そういうオタク的雑認識よしてほしい)、そしてしつこいとしか思えなかったよもゆめカップルの赤面シーンに次ぐ六裕カップルの赤面シーン。

 どこか視聴者を置いて悠然としていたSSSSシリーズが好きだったのに、ここまで観客に目配せしてくるなんてという距離感への戸惑いだろうか。

 少なくとも『グリッドマン・ユニバース』には過去のアニメにはない革新性、といったモノは見受けられなかったように思う。過去のアニメが上手くやれていないところを器用に補完してはいるが、同時にそのハイセンスさにも翳りが見受けられ、最初から六花に彼氏がいるとはとても思えず(そこら辺も早々に感づけるようになっているのはフェアとも言えるし、逃げの姿勢とも言える)、合体シーンよりリソースを割くべきだった終わらない学園祭を強調しきれてないので中盤の転換も意味的な衝撃がさほどなく、青春要素やTVアニメではビビッドに感じられた会話劇も普通に『打ち上げ花火』的作為が見え透いてしまう。

 個人的には六花は「現実でのアカネがアカネの姿をした少女に恋をしていた」コンプレックスが生み出した存在ではないかと思っていたので(繰り返し画面に映る「LGBTを知っていますか?」みたいなポスターに意味を見出して)、創造主から離れた六花がその離れた時間の分裕太に恋をするというのも整合性は感じるのだが、寂しい気持ちになってしまった。

 「遠くを見てる女のコ」が「既存の萌えキャラ」に変わってしまったような。

 ここは姉の喪失から一転、彼氏とベタベタ状態に切り替えたゆめの方がつかみ所のなさと生っぽさが増して、一気に魅力的な存在に思えた。

 

 雨宮哲監督自身も自分のやりたい事よりファンサービスに撤しているような話をしていたが、これは完全に邪推なのだけど「TVアニメの余白だらけの新しさ」も「映画版のお約束に寄りかかった古くささ」も、結局は『自分を剥き出しにしたくない監督』という個性に於いて表裏一体の同じポージングから来ているテイストに思える。

 非常に良く出来ている『シン・エヴァンゲリオン』だとは思うけれど、自分が「シン・エヴァ」を批判するのは「本当ならもっと遠くまで行ける筈なのに、作品ポテンシャルに比してどこにも行かず引き返したから」なのに比べて、グリユニの完成度が高く思えるのは「この果てが見えなくなってしまった、作品ポテンシャルが急に矮小化したから」その射程範囲の狭さの裏返しでもあった気がする。

 『グレンラガン』クライマックスのしつこい全員集合シークエンスがそれでも熱いのは、パロディの集積の果てに遙か彼方の未知の世界まで、圧倒的な強敵相手に勝てない闘いに挑んでいたからじゃないか。

 もっと見えない敵に全力で立ち向かう、剥き出しの雨宮哲監督作品が観たいです。

 劇中劇モチーフでいくと『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』はどうしても比較してしまうし、スタァライトの古川監督も作家性は剥き出しにせず作品に奉仕しようという点では同じなのだけど、「作品に奉仕する」事と「ファンサービスする」事とは似て非なるのだなと感じた。

 ところで初見時、最初の方で背景にチラホラ映る個性的なピンク髪の子がとても印象に残り「なるほど劇場版オリキャラか、、、」と少しワクワクしていたのだけど、特に何もありませんでしたねあのコ何。そういう「知らない何か」のときめきがもっと欲しかったな。

 

AIR/エア』★★★★★

 スタッフ

【監督】ベン・アフレック【脚本】アレックス・コンヴェリー【撮影】ロバート・リチャードソン【編集】ウィリアム・ゴールデンバーグ

 キャスト

ソニー・ヴァッカロ】マット・デイモン【フィル・ナイト】ベン・アフレック【ロブ・ストラッサー】ジェイソン・ベイトマン【ハワード・ホワイト】クリス・タッカー【ピーター・ムーア】マシュー・マー【デヴィッド・フォーク】クリス・メッシーナ【ジョージ・ラヴェリング】マーロン・ウェイアンズ【ジェームズ・ジョーダン】ジュリアス・テノン【デロリス・ジョーダン】ヴィオラ・デイヴィス

 

 エア・ジョーダン開発秘話、というか当時まだ企業としては下火だったナイキがジョーダンを獲得し、また同時にジョーダンもあるエポックな権利を勝ち取る成約に到るまで。

 企画から撮影、アマプラでの配信+配信前にちょっと劇場公開しておくかまでのスパンが一年程度らしく、非常にスピーディに無駄なく創りあげられた作品らしいが(まるで劇中のエアジョーダンの様に)、それ故なのか画面強度がどれも良い意味で軽く、主人公ソニーの無謀な立案に対して誰かが立ちはだかり、それを説き伏せ、立ちはだかり、それを説き伏せ、というシンプルな対立の構図が、誰にも愛着の湧いてしまう粋な会話によって連鎖していく。

 最後にジョーダン一家を迎え入れるプレゼンタイム。その場にいる全てのキャラ、そしてそのキャラを息づかせている全ての役者のことが大好きになっているだろう。一度きり登場して重要な助言を伝えるマーロン・ウェイアンズを除き、ここに本作の主要キャラ全員が集合しているのだ。なんてミニマムで効率的!

 シンプルなストーリーライン、シンプルな台詞、シンプルな役者一人一人の個性(クリス・タッカークリス・タッカーのままこんな味な脇役に見えるなんて)、その一つ一つが的確に仕事をして、まるでバッシュのような軽快さで映画の魅力を誇っている。

 そんな映画の有り様が「個人の権利」という主人公が最後に到るポリシーを裏打ちしているのだ。

 その事をちゃんと広めたいという使命感に駆られて撮影に挑んだというベン・アフレック、つまり「映画的」野心を消して挑んだからこそ、かえって本質的な映画の楽しさが立ち上がっている訳で、間違いなく監督としての彼の最良の仕事になっただろうと思う。

 

アルマゲドン・タイム ある日々の肖像』★★★★★

 スタッフ

【監督・脚本】ジェームズ・グレイ【音楽】クリストファー・スペルマン【撮影】ダリウス・コンジ【編集】スコット・モリス

 キャスト

【ポール・グラフ】バンクス・レペタ【エスター・グラフ(母)】アン・ハサウェイ【アーヴィング・グラフ(父)】ジェレミー・ストロング【アーロン・グラフ(祖父)】アンソニー・ホプキンス【ジョニー】ジェイリン・ウェッブ【ターケルトーブ先生】アンドリュー・ポーク【テッド・グラフ(兄)】ライアン・セル【ミッキー・グラフ(祖母)】トヴァ・フェルドシャー【トッパー・ローウェル】デイン・ウェスト【フレッド・トランプ】ジョン・ディール【マリアン・トランプ・バリー】ジェシカ・チャスティン

 

 ジェームズ・グレイの半自伝的映画。

 80'sのニューヨークが舞台とは思えないくすんだ暖色、少年期を映すにはあまりに人生の秋のようなクラシカルな匂いさえする色味の中で、ウクライナユダヤ人の一家に生まれ育った少年ポールが黒人少年ジョニーと育む友情と、家族の物語、そしてこの世界に纏わり付く窮屈でどうしようもない問題の数々を等身大で炙り出す。

 ポールの無垢さの等身大さと言うのは、例えば家族の食事の時間に家庭料理をミミズみたいと言って食べるのを拒んだり、PTA会長を勤めている母親が何か特権的な存在であると勘違いし、恵まれた部類ではあるにせよ殊更自分が選ばれた存在であるかのような全能感を抱いていたり、そうしたクソ生意気さも含む。美化せずに過去を検分し、人の揺らぎさえ精緻に再構築するような手つきがいつもながら一貫する。

 時に理想の家族に見えた両親は、ドラマティックにですらなく、唐突に息子の反抗にキレて、恐ろしい顔を覗かせる。アン・ハサウェイとジェレミー・ストロングのこの両親の人間臭いバランスは、例えば『フェイブルマンズ』のあざとい母の裏切りシーンとはかけ離れた冷徹さ、ギャング映画のボスが見せるようなそれを思わせる。

 その冷徹さは、本作が射貫こうとしている「世界」「社会」を見据える上で不可分なものだ。当たり前に手に入る気がしていたものをあらかじめ奪われているジョニーとの出会いで、ポールは自分の無力さを徐々に実感していく。ジョニーに何があったのかはポールも観客もわからないが、靴が破けて左足が傷ついている。

 そしてジョニーと離別し公立校から私立校へと転入する事になったポールはそこで、あのトランプ一族が幅をきかす、エリート支配層の勝ち組の論理にさらされ(ジェシカ・チャスティンのこんな使い方)、もはや周囲に同調してみせる事で精一杯だ。全能の魔法は消えた。友だちは助けられない。それでも祖父アンソニー・ホプキンスは病魔に冒された体でポールに伝える。

 「高潔に生きろ」と。

 地に足の付いた演出スタイル――郷愁に一切おもねらず、本当に必要な場面だけを繋いでいる為に「少年の実感」から画面が離れることはなく、緊張も恐怖も愚かな決断の数々も重力を伴ってウソなくそこにある。こういうのは細かい場面ちゃんと覚えている時に書かないと意味がないのでどのシーン繋ぎがどう強かったか言えないのがもどかしいけれど、実は『フェイブルマンズ』のカメラにだいぶ不満を覚えていたので、しっかりと地肩の強さを堪能し胸のすく。

 ポールとジョニーはシュガーヒル・ギャングのライブに行けなかった訳だが、全編劇伴がなんだかhiphopのイントロのようなメロを伴ってシーンとシーンを繋ぎ、妙に存在感を主張してフェイドインするも盛り上がりに到らずフェイドアウトする作り(だったと思う)が印象的で、映画に求める持続感の強調に一役買っていた。

 ある犯行に出る場面があるからという点を除いても、ギャング映画の薫りが学校でも家庭でも濃厚に立ちこめるあたり監督の色がよく出ている。

 紛れもなく80'sの物語ではあるが、個人の80'sの物語であり、そのミニマルな視界が結末を迎える頃にはそのまま画面の先で現在に繋がっている様な、鬱屈とはしているけれどしかし一つの解放がそこに刻まれ、胸に残るは郷愁ではなく観客への鼓舞だったのが沁みた。

 

『ソフト/クワイエット』★★★☆☆

 スタッフ

【監督・脚本】ベス・デ・アラウージョ【音楽】マイルス・ロス【撮影】グレタ・ソズラ【編集】リンゼイ・アームストロング

 キャスト

【エミリー】ステファニー・エステス 【レスリー】オリヴィア・ルッカルディ 【マージョリー】エレノア・ピエンタ 【キム】ダナ・ミリキャン 【アン】メリッサ・パウロ 【リリー】シシー・リー 【クレイグ】ジョン・ビーヴァーズ 【ジェシカ】シャノン・マホニー 【アリス】レベッカ・ウィギンス

 

 白黒つけるのが難しい映画で、実際に米国で暮らすマイノリティとして生きてきた監督が描く白人至上主義者達の醜さを「敵を低く見積もっている」で済ますのは違うだろうと思うし、何よりレイシストの女性一人一人のキャラと表情と容姿の合致感、本当にこういう人いるよなと思わず納得させられてしまう作り込みがその証左となっている。

 そして、彼女達の愚かさも、現実における卑小な悪はこのくらい軽率な暴走から起こり得るという身も蓋もなさを否定は出来ないし、ワンシーンワンカットで陽が沈み、ぼやけた夕方の淡いの中で凶行が勃発し、後はひたすら夜の闇に淵に沈むだけだという絶望を真から見据えた事も、それは十分映像メディアの特権を有効活用した表現たり得ていると思う。

 その上で、この映画としての物足りなさはなんだろうか。

 長回しがそれだけでスリルたりえない、むしろ映像の強固さという面では脆弱なものだとは監督も恐らく判っていて、最悪の瞬間に向かって時に劇伴が煽ってくるのだが、それはつまりその場面が「フリ」にしかなっていない事を如実に示してしまう。

 長回しが緊張感を与えるとしたら何が起こるかわからない予測不能性に拠るところ大きく、しかし何かは必ず起きるだろうという予定調和の矛盾も孕む手法だ。

 その何かへの意外性は(監督的には多面性も与えたつもりかも知れない)一面的な彼女達があまりにスムーズに葛藤なく凶行に及んでしまう事よりも、主人公の夫が明らかに嫌な予感を抱えて妻を止めようとするが、恐らく彼自身抱えた負い目もあり強く止めることが出来ない、そうした「ドラマ」が浮上する瞬間の方がよほど大きく、そうした、謂わば本作の数少ない「面白さ」は作品が抱えた怒りによってほぼ打ち消されてしまった。

 切実な映画だけど、映画としては面白くないのが残念。