きみはひとり ー 『ぼっち・ざ・ろっく!』感想

 

スタッフ

【監督】斎藤圭一郎

【原作】はまじあき

【シリーズ構成・脚本】吉田恵里香

【キャラクターデザイン・総作画監督】けろりら

【副監督】山本ゆうすけ

【ライブディレクター】川上雄介

【ライブアニメーター】伊藤優希

【プロップデザイン】永木歩実

【2Dワークス】梅木葵

色彩設計】横田明日香

美術監督】守安靖尚

【美術設定】taracod

【撮影監督】金森つばさ

【CGディレクター】宮地克明

【ライブCGディレクター】内田博明

【編集】平木大輔

【音楽】菊谷知樹

【音響監督】藤田亜紀子

【音響効果】八十正太

【制作】CloverWorks

 

キャスト

【後藤ひとり】青山吉能

【伊地知虹夏】鈴代紗弓

【山田リョウ】水野朔

【喜多郁代】長谷川育美

 

【伊地知星歌】内田真礼

PAさん】小岩井ことり

【廣井きくり】千本木彩花

 

【ファン1号】市ノ瀬加那

【ファン2号】島袋美由利

 

【清水イライザ】天城サリー

岩下志麻】河瀬茉希

【吉田銀次郎】三浦勝之

 

【後藤美智代】間島淳司

後藤直樹】末柄里恵

【後藤ふたり】和多田美咲

 

 OP 結束バンド『青春コンプレックス』

 ED 結束バンド『Distortion!』

    結束バンド『カラカラ』

    結束バンド『なにが悪い』

    結束バンド『転がる岩、君に朝が降る。』

 

 O.A.2022.10 - 12.全12話.

 

【あらすじ】

 "ぼっちちゃん”こと後藤ひとりは会話の頭に必ず「あっ」って付けてしまう極度の人見知りで陰キャな少女。

 そんな自分でも輝けそうなバンド活動に憧れギターを始めるも友達がいないため、一人で毎日6時間ギターを弾く中学生時代を過ごすことに。

 上手くなったギターの演奏動画を"ギターヒーロー”としてネットに投稿したり文化祭ライブで活躍したりする妄想なんかをしていると、気づいた時にはバンドメンバーを見つけるどころか友達が一人も出来ないまま高校生になっていた……!

 ひきこもり一歩手前の彼女だったがある日”結束バンド”でドラムをやっている伊地知虹夏に声をかけられたことで、そんな日常がほんの少しずつ変わっていくーー

                       (公式サイトINTRODUCTION)

 


www.youtube.com

 

 OPを見てファーストインパクトで「あ、これは繰り返し見てしまうやつ」と気づき、「ロック好きアピールするけど気づかれないぼっち」の描写だけでもう共感性と、所謂「かわいそかわいい」といったいじらしさの感情を突かれ(それは露悪に偏る場合とそうでない場合があり、ぼざろは決して前者ではないはず)、その時点でもうムリだった気がします。見守るしかない。キャラが生き始めていたから。

 と同時に、バンド4人の演奏をワンカットに収めず、あまつさえアウトロでの孤立感の強調に「これで1クールのきららアニメを……?」という違和感が。やがてそこに本作の描きたいものが全て詰まってたことに気づきます。

 


www.youtube.com

 

 ゆるふわな日常と高密度な演奏シーンということで『けいおん!』の再来を思わせる本作のもう一つの取り沙汰され方で、2022年のCloverWorlsの快進撃がよく挙がってますね。

 『明日ちゃんのセーラー服』『その着せ替え人形は恋をする』『SPY×FAMILY』『シャドーハウス(2期)』『くの一ツバキの胸の内』まだ『明日ちゃん』『着せ恋』しか見ていませんが他も全部面白いに決まってます、楽しみ。

 そして少女たちの作画のフェティッシュな拘り、手や足の細やかな表情で何をか語ろうというショットの趣向で『明日ちゃん』に感じた事もやはり『けいおん!』を筆頭とする京都アニメーション山田尚子的世界の深化でした*1

 そこに加えて、『ぼざろ』は同じ京アニでも石原立也監督的な「デフォルメが効き過ぎて実験的な域のギャグ描写」の合わせ技にもなっていて、『けいおん!』+『日常』という、京アニ的でありながら京アニはやっていないところをちょうど突いてくる新鮮さもあり、そこが単なる二番煎じを脱した強みであったとも。

 

 どうしても代表作として『けいおん!』をイメージさせられるゆるふわ系の作品の中で*2、近年は『ゆるキャン△』のヒットに顕著なように、ゆるふわ生活を描くとどうしても潜在的に描かれてしまう「ゆるやかな同調圧力」の世界*3の否定が新たな流れ、というより前提として敷かれるようになり、その抜けの良さは本作にも健在。

 実は最初に作品のコンセプトを知った時から「バンドを組んだらもうぼっちではなくなるじゃん」と、よくこの題材で連載や1クールアニメが続くなと不思議で、OPを見てその疑問はより深まったのですが、本作に於ける「ぼっちちゃんのぼっち性」はただ孤立しているという事が問題なのではなく、根本的な性格や気質の問題で周囲と上手くやれない、あまり迂闊な診断名を記す事は憚られますが決して現代人の中でも少なくない障害持ちかそれに近い所謂「グレーゾーン」なのではないかと、今では結構リアルに感じられます。

 

 『FLANK』という映画がありました。イギリスの田舎で漠然と音楽での成功を夢見る若者ジョンが、四六時中大きな被りものの覆面をしている「フランク」なる謎の天才アーティストと出会うことでバンド活動を始め、やがてテキサスまでツアーに出るがバンドは瓦解、素顔を見せず奇行ばかりのフランクは行方不明に。

 夢破れて帰国したジョンはフランクの両親に遭い、「何故彼はああなのか」と問うと、両親は困ったように「別に何も。普通の家で普通に育てた、普通の子だったよ」と伝えます*4

 才能があるからとかバンドを組んだとかそういう外付けのレッテルでは何も解決しない、本人が一生抱えていくしかない気質。

 

 ぼっちちゃんもきっと、極端な反応を繰り返して他者とスマートにコミュニケーションを取れない気質を一生抱えていくのでしょう。

 それは個性だとか魅力だとか他者が讃えてみたところで、本人にとってはずっと続く苦悩。たとえバンドを組もうとも、才能が認められようとも、その孤独から目を逸らさず、彼女の神経過敏さをギョッとするほど実験的でデフォルメしたギャグ描写で伝えてくれるところに本作の優しさを感じました。と同時になるほど、であれば「ぼっち」を題材にどんなに人間関係や展開を広げてもその根本は揺るがない。

 

 実は途中までは緻密な作画とそれを適切なリズムのショットにハメていく手つきの確かさの実写的な匂いに対してデフォルメが余計に思えたのですが(『けいおん!』の中に『日常』のギャグが出てきたらうるさい筈なので)、途中からその過剰さこそがぼっちちゃんの見ている世界なのだと得心がいき、その不器用さが他人とは思えず泣けてきました。

 原作に比べぼっちちゃん以外のメンバーのモノローグが大幅に消されているという指摘も見かけて納得。Kindleプライム無料体験で1巻は読みましたが、個人的に印象に残ったのはそもそもが4コマという枠を窮屈そうにしている「何か語りたい」原作のパワーと、それと意外とアニメに比べて身体性が艶っぽく出てるように感じることで、ここら辺はアニメ版の方が上品、かつシンプルにお洒落で可愛くて、何より楽器という主役を引き立てるバンドマンのシルエットとしてそちらの方が良いので好みです。

 

 ここまで個人のメンタルに寄り添ってくれる作品であるにも関わらず、本作を言及する声はキャラ同士の関係性を消費するものが多く、「ぼっちちゃんの様な才能も無いのに『私がぼっちちゃんだ』と思うことが口にしづらい」空気がネット上に漂っているような不健康さを感じるのですが、

 いいんじゃないですかね。

 そんな才能なんて関係ないところにある「ぼっちちゃん性」をこそ主眼に据えたアニメなのですから。

 生きづらさを感じていればきっと誰でも「ぼっちちゃん」であり、ぼっちちゃんが結束バンドに出会えたように、そうした視聴者が『ぼっち・ざ・ろっく!』と出会えてそこに自分の居場所を見つけられたら、作り手も本望じゃないでしょうか。

 

 ぼっちちゃんが

 ・周囲に合わせようとして努力して空回りする時、

 ・自分の作詞にだけは異様に自信があり「傑作です」と言い切れてしまう時

 ・そしてED2『カラカラ』のアニメーションで、どこぞのテラスでジュースかラテを啜りながらスマホを眺めている時(恐らくSNSで誰かが自分に反応してくれるのを待っている)

 その隙だらけのうら寂しい姿にもし自分自身の姿を見つけることが出来たらその時、

 きっときみはひとりぼっち。

 


www.youtube.com

 

 ぼっちちゃんが最大のヒーローになる演奏シーンでその猫背も視野狭窄もより一層ひどくなる、という逆説も本作の良心で、たぶんバンドアニメをやろうとしてここに至れる作品は他にもまず無いんじゃないかと感じました。

 ところで『けいおん!』の演奏シーンは元を辿れば『ハルヒ』の文化祭ライブですが、そこで用いられる「演奏中、他の校内の様子の点描が流れる」演出の元ネタはハルヒ同回内に目配せもされた映画『リンダ リンダ リンダ』です。

 同様の演出「文化祭での演奏中の校内点描」が本作最終回でも再び登場するともはや何の何?となってそこまで「オマージュである事」を薄めていいのだろうかと若干妙な心配も浮かんだのですが、同時に「すごいバンドがやってるらしいよ」と生徒たちが噂して友達を呼び、ぴょんっと跳ねる、というシーンも織り挟まれます(そんな台詞がある訳ではないが、聞こえてくる)。

 これは渡辺信一郎監督『坂道のアポロン』の文化祭ライブシーンそのままであり*5、つまり「何の何」という事はなく「遍く文化祭表現」のすべてを連れてきて、それでもその中心にいるぼっちちゃんの視野は自分の世界に孤立したぼっちちゃん性を保ったまま、という点の強調に繋がっているのです。

 この際、喜多ちゃんはぼっちちゃんをちゃんと見ているし、山田リョウもぼっちちゃんの暴走に恐らくは期待して虹夏に目配せしているし、もちろん客席からきくりや店長、ファン1号2号、後藤家一家もぼっちちゃんを親身になって見守っているのですが、ぼっちちゃんだけは自分の手元しか見えていません。

 ようやく素の自分で舞台からの景色を見渡した時に、相変わらずの極端な行動ですべてを台無しにしてしまいクライマックス中断。

 成長しようのない根本的な気質はそのまま、という一貫性。その上で、彼女の人生はじゃあ何も変わらないのかと言えば、第一話との反復であるエピローグがそうではない事を伝えています。

 転がる石は石のまま、けれど転がれば昨日とは違うところにいる。

 

 現実社会と日本のアニメの乖離は時おりとても心許ないのですが、最終回でカバーされたその曲の歌詞の入りにやけに安堵する自分がいました。

 

 数年ぶりに、アニメ一話に出会い、繰り返し見てそこに落ち着く居場所を見出して……という、アニメファンらしい振る舞いを取り戻すことが出来て、それから先、心なしか遠ざかり気味だったアニメ見る時間が増えた気がします。

 アルバム『結束バンド』も名盤で、楽曲がアニメを外側で補強しうる事をしっかり計算に入れて制作されている事も伝わってきます。

 特に『カラカラ』のラストがエモエモなので、アニメ見て好きだった方は是非聞いて欲しい。

 たぶん本作が肯定しているのは、こういう儚さ。

 

open.spotify.com

 

 スカート揺れる教室の隅で 

 ずっと溢れる夢を抱きしめてた

 『きっとやれるわ』

 やれるわ… やれるわ… やれるわ…

 

*1:ところで『ぼざろ』のアジカン引用に先んじて、『明日ちゃん』では重要なシーンでスピッツ『チェリー』が登場します

*2:必ずと言っていいほど「卒業」=「リミット」を設定する京アニのゆるふわ路線は実は他の「ゆるふわアニメ」と別ジャンルだと思っていますが

*3:女子特有と言われがちですがホモソーシャルにも当然存在する

*4:フランクは最後まで顔を見せませんが、演じるのはマイケル・ファズベンダーなのも味です。例え中身が特別であろうとも、世間には浮いたかぶり物にしか見えない

*5:ファン1号2号の声優・市ノ瀬加那島袋美由利が渡辺監督『キャロル&チューズデイ』のキャロルとチューズデイなのは、わざとですよね?。『水星の魔女』でも共演してた二人