スタッフ
【脚本・演出】吉田武寛 【原作】太宰治
【音楽監修」小山豊 【音楽アレンジ】小山豊、広田圭美
【衣装】キサブロー『FOGHORN』 【ヘアメイク】earch
キャスト(Aチーム)
【大庭葉蔵】河内美里
【ヨシ子】岩田陽葵 【シヅ子】倉知玲鳳
【ツネ子】加藤里保菜 【シゲ子・竹一】中村和泉(SKE48)
【ヒラメ・父親】難波圭一(声の出演)
配信にて鑑賞。
全員女性で演じる朗読劇。
朗読劇には「役者が動くタイプ」と「役者が動かないタイプ」とがあって、それと例えば『女神降臨』では共演者が語ってましたが「動かないタイプの劇だったのに主演の小泉萌香さんが「ステージが勿体ない」と動き続け、共演者たちが感化されて少し動きをつけていった(演出家はもう小泉さんに任せた)」なんてパターンもあるそうですが、
本作はガッツリと動くタイプの朗読劇。
それも演奏者が陰に隠れるような、かなり立体的なセットの上で。
すると「葉蔵」に対して「女(世界)」が取り囲み、相対し、そこに時折波紋としての葉蔵の写し鏡「堀木」が不意に闖入してくる効果を高め、原作がより立体的に理解できてくる。
「やさぐれた男の色香」を放つ河内美里の説得力が完全にすべてに勝る劇であり、また結論としてそれこそが原作へのアンサーともなっていましたが、ツネ子、ヨシ子、マダム、それぞれのダメンズに引っかかる女性像の違いも現実味を帯びて見えてきて流石でした。
『人間失格』の構造は、人間としての不自然さを身にまとい偽りの「世間」を演じる社会の非人間性や韜晦のいやらしさを、より人間らしい自虐や諧謔を纏った葉蔵が逆説的に暴き出し、我こそが真に人間らしいのだと宣言していく卑屈なようで傲慢な美学を纏っていると思うのですが。
本作はそれよりは太宰が性差で分別して畏怖し続ける、社会を越えた世界の得体のしれない距離感、それを託した「女性性」というものへの意識を、役者たちが女性であることで解体していく、そしてあのオリジナルなラストに帰結するという解釈で再ビルディングしたものと受け取りました。
今の社会を討つにあたって、前者の醍醐味は霧散して(左翼活動のシュプレヒコールの流石に子供が書いたのかみたいなワードチョイスは萎えた)、後者の目論見も最後にやっと理解ってくるといった薄弱さで、ややどっちつかずではあったかと思う。
その上で、ともかくキャストが放つ退廃的ダダイズムの空気、それらを最大限引き立てる美術と演奏の効果。
もう感想は一つで・・・・・・飛行船シアターで観たかった・・・・・・。
河内美里と岩田陽葵の並び、二人が纏う赤、これを客席から小泉萌香が見ていた事実、それだけでもう十分お釣りはくるのです。
余談ながら『舞台DOLL』を新田恵海さんの一つ前の席で観劇する(しかもこの二列合わせても周囲には他に一人しかないというウソみたいな時間)という希少な機会を得ていたので、本作ではるちゃんと「初」合流してるというのなんか嬉しかったですね。俺のが一歩早かったんですけど~っていう得意な気持ち。
そして倉知玲鳳さんのバイブレイヤーとしての汎用性の高さ!