『レオポルド美術館 ウィーンが生んだ若き天才 エゴン・シーレ展』@東京都美術館

 

 4/9(日)東京都美術館

 

 流石に見てすぐ感想記録しておくべきだったな、バリ高いしクソ混んでるしで図録買わなかったけれど、買っておけば良かった。

 実は美術館で図録買うなんて長いことしてなくて、久しぶりに「多少値は張っても買っておけば良かった」と後悔するくらいには記憶に留めておきたい絵との出会いで溢れていたんだなと今になって気づく。

 絵画の感想の語彙、何より鑑賞に必要な素養が心底ないのが惜しまれるけれど、忘れてしまうよりは感触を残していこうかと。

 

 芸術家団体クンストラーハウスからクリムトを中心とした若手芸術家グループが脱会し、ウィーン分離派として分離派展、雑誌ヴェル・サクルム創刊など精力的な活動を始め、大作「ベートーヴェン・フリーズ」など数々の芸術史に残る作品を打ち立ててきた事は『クリムト展 ウィーンと日本 1900』で学んだ。

 エゴン・シーレは若手集団の更なる若手として後半から参加した新星。ただクリムトが55歳で没したその同じ年に、身重の妻エーディトに次いで28歳で亡くなっている。

 クリムト死後シーレの描いた分離派展ポスターの、空席を残した会議(?)風景が切ない。

 シーレの絵からも窮屈に収められた首が真横に曲がっていたり、クリムトの金箔に対してシーレは銀箔を好んだとのことでしたが普通に金箔の絵もあったり、彼の影響の大きさを物語る。

 

 まだギリ印象に残ってる範囲で。もっと色々あった筈なのに。

 

 シーレ『赤い背景の前のケープと帽子をかぶった婦人』

 小さめの絵なのだけど、小さくつぶらな女性の瞳がしかし立体的に飛びだしてくるようなインパクト。みんなここで足を止めてその目に見入っていた。

 

 シーレ:一連の裸婦の絵

 『頭を下げてひざまずく女』筆頭に、女性の身体の丸まったスケッチ。一瞬感じる「肉塊」あるいは「果肉」といった心象が「肉体」として腑に落ちるまでの僅かのズレ。

 

 アルビン・エッガー=リンツ『昼食』

 農家の男たちが作業の間に婦人の作ったスープをすすっている絵。彼らのその日の生活、日常、そして人生が一発で理解らされる。

 

 アルビン・エッガー=リンツ『祈る少女 聖なる墓、断片Ⅱ』

 半地下のような暗室?で祈る少女の背景に大きなガラス玉の飾りが陽光を反映して並び、十字架のように見える。シンプルに美しさにやられる。祈る人そのものへの信仰。

 確かこのエッガー=リンツさんのことを覚えておきたくて「図録欲しい」と思ったのです。

 

 コロマン・モーザー

 この人は分離派のデザイン面での主軸だったのでは。切手のスケッチのデザイン性がすでにモダン。絵画も四点横に並んでいて、端から順に見事に作風を変えているので、画家の技巧を具体として目に出来た。

 

 シーレ『装飾的な背景の前に置かれた様式的な花』

 これがクリムトの影響で金箔も使った、ウィーン美術アカデミーへの反骨のスタイル。じかに触れるならではの絵画の立体感含めて純粋に「見る」モードに入れた一枚。

 他に誰だったか忘れたけど、絵の具を「ベタッ」と貼り付けて「木です」「空です」とやっている絵の質感もじかに絵を見る面白さを教えてくれた。最近こういう絵の具の層がこんもりしている事がわかる絵画にくすぐられる。

 

 クリムト『シェーンブルン庭園風景』

 クリムトが唯一描いたウィーンの風景画。美しい。クリムト展でも普通に美しい少女の横顔『ヘレーネ・クリムトの肖像』に魅せられましたが、ともかく自分の中で「普通に美しい」をめちゃくちゃ上手に出来る人なんだという印象の人になってきているクリムト。『エルフェン・リート』OPのインパクトがなんもかんも悪い*1

 池の水面でシンメトリーになっているのだけど、その鏡面の中心線が中央より上にあるので、水面に映る虚像の美しさのほうが面積が長く、水底の青空が悠々と広がって、永遠というか無垢の拡がりを見る。

 『ハウス・オブ・グッチ』のガガ様もこっちのクリムトであれば好きになって記憶出来てたかも知れないのに。

 

 カール・モル『冬のホーエ・ヴァルテ』

 クリムトの風景画の美しいキャッチーさと、カール・モルの風景画の雪の湿った重さまで伝わってくる質感とのギャップ。ここでいう質感もじかに見てこその「塗り」の質感。図録買ったとしても結局こういう印象は消えてしまうしなという躊躇はある。

 

 リヒャルト・ゲルストル

 この人生の話自体が衝撃的過ぎて(人妻に恋慕してみんなから仲間外れにされて自殺した。享年25歳)、自画像もストレートで存在感が飛び込んでくるし(写真もあった)、この人の存在感によって「分離派の青春」感が一気に前面に出てくる。

 

 そんな仲間たちのバリエーション豊かなスタイル、クリムトの自由度の高さ、そしてゲルストルの強烈な自画像の影響を存分に吸収したからこそのシーレのこの多様な作風の魅力なんだなーと納得した上で出会う、エゴン・シーレ自身の自画像の数々。

 

 自分の状態を絵として繋ぎ留める為に投入されるあらゆるスタイル。

 ポスターにも使われている『ほおずきの実のある自画像』は対となる『ヴァリー・ノイツィルの肖像』が不在であった為にかえってアシンメトリーさが引き立っていたのは画家の望む形だったのかどうか、ひたすらお洒落。

 でもむしろ他の自画像の陰鬱な空気の方が刺さった。

 

 『自分を見つめる人 Ⅱ(死と男)』

 美術展を巡っていると「こうして歴史に残る人」と自分の何も無さとの落差をいつも痛感するけれど、写実とはほど遠い自画像の前に立つと視点の主客が混合して、画家の感覚とリンクした気になる。

 その上で覗くこの一枚。

 死のような「男」と男のような「死」が手前から伸びる第三の手で繋ぎ留められている。

 

 一瞬、自分が「自己の」主観から解放されたような錯覚を覚えて、得がたい体験となった。

 

 さて最終日の大混雑ということもあって目にした混乱がいくつか。

 入場前、受付係二名が二名とも客と予約のことで揉めてた。「四時間前も来たのよっ」と激昂する婦人。どうしても事務的にならざるをえないのか、受付の人の対応も明らかに火の油を注いでいたように思う。あの人達も入れていると良い。

 

 退場後、入り口前で揉めているホームレスのおじいさん。

 「クリムトの時はエゴン・シーレ三枚しか見れなくてよ。今日でやっと、やっと見れると思ったのにそれをお前ら役人が。役人はいっつもそうだ。あああああ」

 すごく芝居がかって泣き崩れて、一体どういう経緯でそうなってるのか知らないけれど、あの人も入れてると良い。

 

 混雑が予想される展示会の予約はしっかりしましょう。

 

 

*1:神戸守監督、『ソ・ラ・ノ・ヲ・ト』OPでもクリムト引用してるので本当に好きなんだなと思いますが