もう見落とさないように ー 『対峙』感想

スタッフ

【監督/脚本】フラン・クランツ

【音楽】ダーレン・モルゼ

【撮影】ライアン・ジャクソン=ヒーリー

【編集】ヤン・フア・フー

 

キャスト

【ゲイル】マーサ・プリントン 【ジェイ】ジェイソン・アイザックス

【リンダ】アン・アウド 【リチャード】リード・バーニー

 

【ジュディ】ブリーダ・ウール

【アンソニー】カゲン・オルブライト

【ケンドラ】ミシェル・N・カーター

 

『あらすじ』

 アメリカの高校で、生徒による銃乱射事件が勃発。多くの同級生が殺され、犯人の少年も校内で自ら命を絶った。それから6年、いまだ息子の死を受け入れられないジェイとゲイルの夫妻は、事件の背景にどういう真実があったのか、何か予兆があったのではないかという思いを募らせていた。

 夫妻は、セラピストの勧めで、加害者の両親と会って話をする機会を得る。場所は教会の奧の小さな個室、立会人は無し。「お元気ですか?」と、古い知り合い同士のような挨拶をぎこちなく交わす4人。そして遂に、ゲイルの「息子さんについて何もかも話してください」という言葉を合図に、誰も結末が予測できない対話が幕を開ける――。

                          (公式サイトより)

 

 冒頭、日本で言えば地方の公民館? 素朴な教会の一室にカウンセラーと教会事務員の案内でゲイルとジェイが到着する様を、淡々とした緊張感で描く。

 教会のピアノでは子どもがレッスンを受けており、「ちょっとやめさせてきます」と事務員は慌てる。

 対峙するその時までの猶予に、その日常でいくらでも出会うような少しぎこちない事務的な会話と「待ち」の時間を自然に紡ぎ、こちらが弛緩してきたところで、相対するリンダとリチャードは逆に突然ぬるっと登場する。

 そこまで日常であると同時に段取りめいてもいた画面はそこで盛り上げ時を見失い、こうして被害者遺族と加害者遺族の劇的な出会いはあまりに平板に始まる。

 

 明確なドラマなんてない。探り合いから少しずつ始まる会話。

 スキャンダラスなバックボーンさえ映画内情報としては小出しに、少しずつ伝わっていく。

 本題への起点のような会話がなされた時、カメラは縦の構図で横並びに相手夫婦を見る互いを切り返し映すが、こうした劇的ショットは以降、息を潜める。

 綿密にリサーチを重ねて紡がれたのだろう、あまりにリアルで、素朴で、罪がない故に罪深いヒリヒリする会話の数々。カットは時に夫婦を分断して割り、2対2に思えた構図は絶え間なく揺らぎ続けて、リアルタイムで編集されているかのようにその時々の会話に合わせてそれぞれの人物を切り抜く。

 原題『Mass』を「集団」的に読んで邦題『対峙』とのズレの中に本作のフレームの戸惑いが捉えられていて見事だと思ったのですが、町山さんによると「ミサ」と「無差別乱射(Mass Shooting)」のWミーニングとのこと*1

 

 口論以上に、「え、何言ってるの……?」「どういう意味……?」「今それ言う……?」という表情が、お互いの夫婦に対してだけでなく夫婦間でも頻発していき、緊張が安らぐ瞬間がない。

 加害少年である息子への愛情を隠しきれない、もっとも糾弾されやすいリンダの顔に刻まれた「疲弊」の凄みに不意にゲイルが共感を寄せている表情、批判しに来た訳じゃないんだからと遠回しな言い方をしていたジェイとリチャードが自分の言葉がおかしな方向へヒートアップしている事に気づきながら止められない表情、分断と調和が一言ごとに変化して、私たちは日々片時も休まることなく他者の情報を受け取っている。

 映画のフレームは、どんな表情も撮り漏らすまいと適切なカットを求めて4人の誰かの表情を捉えるが、その表情は次の瞬間にはまた心理の迷宮に迷い込み、そして相手の心理を読み解こうとして相貌を変えていく。

 『イニシェリン島の精霊』に動物の撮り方が怪しいだなんだイチャモンを付けてしまったのは、その指摘が正しいかはともかく「映画的であろうとしてるのに舞台に見えてしまった」という事が言いたかったのですが*2、逆に本作は「この上なく舞台的な題材と内容なのに、終始映画的」で、その「映画的」は何か効果的なショットがあるといった話ではなく、映される顔を見続けることの切迫した緊張が為だと思う。このカメラである必然があった。

 

 次第に、語られる言葉の切れ端から、亡くなってしまった二人の少年の姿が観客の脳裏に浮かび上がる。親たちと共に、その想像のフレームの中で彼らを見逃すまいと必死にカメラを回し続けている自分がいる。けれど最後まで映画の中に彼らが姿を現すことはなく、親たちはその届かない永遠の断絶に途方に暮れる。

 それでも、今目の前にいるその人の表情は、たしかに目にして、想像して、じかに反応し続けることは出来るのだ。

 観客に「今から目を逸らさない当事者」であることが要求されていると気づいた時にはもう、息が詰まるこの空間から逃げ出せない。

 

 どこかでスキャンダラスな野次馬根性で鑑賞に臨んだけれど、通り過ぎた過去に見逃したもの、または「私自身が見逃された悲しみ」について、ずっと我が事として受け止めてしまい、しんどいが過ぎた。

 ただ映画としてはカサヴェテス的なしんどさではなく、「リンダの花」が象徴するように映画の縦軸を構造として貫く要素もいくつか用意されてあり、ライブ性はあるがライブ性に拠ってはいないという奇妙な秩序がある*3

 それはつまり、決して意味深なショットではなくても芝居している人物を適切にカメラで抜いてカットを切り返していくことの、堅実な選択の作業に妥協していない事がもたらす信頼。

 

 監督はどれだけ重鎮の、日本では知られていないタイプの業界人なのかと思いきや……

 

『キャビン』で終始ラリってたアイツの監督・脚本デビュー作だって!!!???

 

 傑作だけど見返したくない、人生でもトップクラスのトラウマ映画に『ホテル・ムンバイ』があるのですが、『対峙』もそれ級の衝撃を受けました。

 どちらも逃げ場のない映画館だからこそ「向き合う事」の衝撃をくれた。

 どっちにも出てるジェイソン・アイザックス何者。。。と思ったらハリポタでマルフォイのパパ演ってた人か。

*1:それでも日本版のアートワークがどれも考えられていて素晴らしい仕事

*2:でも今ではちゃんと映画的な光景が印象に残ってるので良い映画だったかも知れない

*3:カサヴェテス疲れるじゃん