『マティス展』@東京都美術館

 

 6.25(日)東京都美術館にて.

 

 絵筆をとったのは二十歳と遅まきながら、ドラマチックな紆余曲折ありつつ84歳になるまであらゆる技法で作品を生み出し続けたマティスの大規模回顧展。

 同時代を生きた複数作家とかでお茶を濁さず(大事な視点だしそこにお目当て以上を見つけるのもまた醍醐味ですが)、これほどのボリュームで一人の画家の変遷とじっくり向き合ったのも初めてだったかも知れない。

 感触としては同時代を生きた『ピカソとその時代』を思い出しました。マティスピカソとの交流を前後してもろにキュビスムにチャレンジしている一幕もあり。

 

 ピカソ展のそれが「野心ある天才」の意匠で満ちて、その時々の狙いはわかるけれどそこでそんなに飛躍するんだ?みたいな混乱があったのに比べて、マティスは最初からずっと「頭の中にあるイメージを表現に興したくて試行錯誤してる」と伝わってくる、「なんとなくあなたの求めてるものがわかります」がずっと続く。

 南仏を愛し美しい海外へ旅行しと美的感覚も非常にポピュラーな人が、その普遍的な感覚の中で自分のイメージに妥協せずに表現を様々変えて模索したことが勇気づけられたかも知れない。

 

 自身の中にある「色」「輪郭」のイメージと現実の技法との折衷点を模索し続ける中で、窓を「フレーム」として強烈に意識せざるをえなくなるマティス

 二つの窓が異なる位相にあるかのような『赤の大きな室内』や窓とテーブルの違いがわからない『黄色と青の室内』を筆頭にフレーム内フレームへの意識が偏執的なものにも感じられるのですが、だからこそ抜けの良い『金魚鉢のある室内』ーー窓枠の手前に置いた金魚鉢の中で、「内」と「外」が混ざり合って境界を融かし、かき混ぜているーーが、枠から逃げられない自意識に穴を開けて現実と繋げるような、私の限られた視界を外と繋げてくれるような、そうした風通しの良さを感じさせてくれて、今まで出会ってきた絵の中でも一番好きかも知れないくらい惹かれました。

 救われたといってもいいくらい、少なくともその絵を見ている間は鬱屈から地続きの解放を胸に抱くことが出来て、それは他の作品で触れたマティスの追い求めるフレームへの意識に縛られたイメージを知っているからこそ尚、強烈に感じたのだと思います。

 あくまで絵画で実行する前の習作として励んでいた彫像も様々に展示され、中でも立体造形物を通して「どこまでイメージ通りに輪郭を操作できるのか」大胆に試みる『背中Ⅰ-Ⅳ』が展示会全体に感じた所感を裏打ちしてくれた。

 理想の輪郭を追い求めながら、その輪郭と世界が融合した先にある心の安寧を夢見る。

 有名な、微睡みに落ちる女性を描いた『夢』がその習作の素描と並べて飾られていたのですが、完成品はより輪郭が沈み、やはりフレームに縛られながらフレームの奥底で世界と融けて混ざり合おうとするような感覚を覚えました。

 

 いきなり出くわして面喰らう『コリウールのフランス窓』の、「せり出してくるような、実体としての闇」が持つ恐ろしさと奇妙な(暴力が持つそれに似ている)頼もしさ。

 実際に目にすると何より足下の人間の肌の色に目を奪われたフォービスムの代表作『豪奢Ⅰ』。

 ランダムにも思える切り絵作品が音譜のように壁に並んだ『ジャズ』の楽しさ。

 そしてマティスが4年間かけて制作した生涯最後の仕事、『ヴァンス・ロザリオ礼拝堂』で、それまでの「イメージを具現化することへの執着」の結晶が実体化して、今もこの地上の片隅を彩っている歓び。

 

 暗い影は多々落ちるも、それでもなんて幸せな人生なのだろうと嫉妬せずにいられない展示会でした。また行きたい。

 

 一方でこうした視点の方もいる。

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